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名前 |
木幡神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.0 |
野田市木野崎の木幡(きばた)神社には、かつて社殿裏に将門を祀る小祠があって「隠れ将門」と称し日の当たる日中には参詣しなかったといわれる。ちなみに延暦10年(791年)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中に宿陣し戦勝祈願をしたのは栃木県矢板市にある木幡神社の地である。田村麻呂は出発前に山城国宇治木幡村にある許波多神社に向かって「功あらば一祠を建立せん」と遥拝した。蝦夷征伐を終えて凱旋途中に再び矢板の地で宿陣し木幡神社を勧請した。天慶3年(940年)平将門追討祈願の功により社領1千石が寄進されたという。-------------------------✂ キリトリ線------------------------------将門の山崎街道と呼ばれるものがあったそうだ。守谷市高野→寅薬師の伝承の残る守谷市野木崎の辺田前→大円寺→古利根川→野田市木野崎の木幡神社→野田市山崎面白いことに山崎から見て寅の方角に寅薬師が鎮座する。夢のお告げで太公望呂尚の兵法書である六韜の虎の巻を手に入れた将門は、寅の方角に寅薬師を祀るお堂を建てたという。将門は「檥橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」と宣った。★幸田露伴は「今の葛飾の柳橋か否か疑はしいが檥橋(ふなばし)といふところを京の山崎に擬らへ」★旧猿島町史資料の『事績簿』は「うき橋をもって京の山崎になぞらえ」舟橋も浮橋も仮設の橋である。「檥」は「ブナ」と読むことがあるらしい。幸田露伴が「ふなばし」と読んだのもその辺りからかと思われる。ちなみに「檥」の意味は「目印となる立木」とか「船を着岸させる」という意味とのこと。渡し場には遠くからよく見える大木がある。この大木は小舟で川を渡るときに向こう岸の船着き場の目印としたもので、旅人に此処に渡し場があることを知らせる目印でもあった。守谷市大木と野田市木野崎の境界が大きく湾曲しているのは古利根川の跡であろう。ここは天然の廓であったように思う。自分はここに「檥橋」があったと思う。山崎は京都の西の守りの要所で「天王山の戦い」で知られる天下分け目の決戦地であった。河川に架かった小さな橋を隘路として敵の総攻めを塞ぐことの出来る場所を、要害の意味で「山崎」と呼んでいるのであろう。野田市木野崎の木幡神社が「檥」の意味である「目印となる立木」を暗示しているとしたら…「木幡」+「山崎」\u003d「木の崎」→「木野崎」野田市木野崎と守谷市野木崎は木幡で繋がっており、将門の山崎街道の要所であったと思われる。鬼怒川、小貝川、飯沼、菅生沼、長井戸沼などからは砂鉄が産出する。守谷市大木付近では鉄縡(てっさい)が発見されることから、たたら製鉄が営まれたものと考えられる。閑話休題。さて守谷市高野から県道58号線を北上すると大円寺がある。ここは江戸時代の古地図を見ると丁字路で、東は大円寺の奥に御霊山、西は水神社前の渡し場から野田へと続いていた。御霊山近くの旧家「須賀家」は系図を見ると須賀家八代目の大江弾正が将門の水軍の将であった。将門を助け水上の警備に当たったといわれる。「檥橋」はこの付近にあったかも知れない。この須賀家に繋がる須賀与作という者が、将門の死後に仏門に入って「将門記」作成に関わったという説もある。(この御霊山で将門記が作成されたとも伝わる。)なお将門の時代にはこの地に鬼怒川は流れてなかった。もともと鬼怒川は谷和原村寺畑にて小貝川に合流していたが、小貝川が氾濫し水難に悩まされたため、元和年間、幕府の命をうけた関東郡代伊奈忠治が細代から守谷町大木へ約10年間かけて苦心の末開削し、利根川に合流するようになった。相馬に都を建設すると宣言して2か月後に将門は流れ矢に当たって落命した。建設事業にはまだ着手してなかったのでは…ゆえに各地に残る将門が京になぞらえて造ったと伝承のある寺社や大路小路等は伝説でしかないだろう。将門記に具体的な地名が記されるのは、相馬郡では「相馬郡大井」ただ一ヶ所のみである。将門記の後半部分を著したのは東国の土地勘が無い人物と推察される。 柏市沼南に大井という地名があることから将門は手賀沼を琵琶湖に見立てていたと思われる。大井の台地からの眺めが滋賀県大津市に似ているという。将門は相馬に都を建設したという伝承がある。『将門記』には、将門が「下総国の亭南(邸南)」に「王城」を建設したと記載される。『保元物語』には「将門が下総国相馬郡に都を建設し、自ら平親王と名のった」と記述される。あくまで大雑把だが、今城の南、東に大津(手賀沼)、西に山崎という位置は、柏流山の相馬御厨の地が当てはまるような気がする。-------------------------✂ キリトリ線------------------------------野田市瀬戸に将門の隠し湯があって、将門が広河の江の合戦で敗退し、ここの温泉にて身体を癒したと伝わる。将門記の記述を見るに、広河の江で将門は脚気と思われる症状で身体が思うように動かなかったようだ。瀬戸に「大利根温泉バス停」というのがある。今は枯渇してしまったようだが、かつては大利根温泉というのがあったらしい。ここは野田市山崎のすぐ近くである。子飼の渡しの戦いでは妙見菩薩が浅瀬を見つけて戦場から逃れるルートを教えてくれたため命拾いをしたという伝説から、ひょっとしたら密かに乗馬したまま利根川を渡ることが出来る浅瀬を探してあったかも知れない。利根川を渡った先は出津(でいつ)と呼ばれたようだ。出口であろう。将門は今城と呼ばれる館にも「落とし口」と呼ばれる抜け穴を掘って万が一の事態に備えたという。そもそも何故、このような場所に広河の江にまつわる伝承があるのか。最初は将門の隠し湯とか、客寄せの為の作り話だろうと思っていたが、子飼の渡しの合戦の古戦場跡がつくばみらい市筒戸かも知れないと考えたとき、将門の隠し湯の伝承も実は何らかの歴史的事実が隠されているかも知れないと思えてきた。ひょっとしたら、広河の江とは利根川のことで、将門が妻子を船に乗せて隠したのは利根川である可能性も捨てきれなくなってきた(笑)-------------------------✂ キリトリ線------------------------------出津の「津」は船着き場を意味する。利根川と鬼怒川の三角洲付近に「がまんの渡し」と呼ばれる徳川家康公にまつわる伝承が残る渡し場がある。家康公の時代にはここに鬼怒川は無かったので、おそらくは「三ツ堀の渡し」であろう。がまんの渡しから寅の方角に寅薬師が鎮座したという話もある。漢方薬に詳しかった徳川家康公は薬師如来の生まれ変わりであるとか。薬師如来は東方瑠璃光浄土の教主で、東照大権現の本地仏であるという。だが、守谷市野木崎の寅薬師は室町期の作である。