静かに歴史を感じる日本遺産。
日新塾跡の特徴
日新塾跡は日本遺産に登録された貴重な歴史遺跡です。
幕末期に活躍した教育者、加倉井砂山の私塾の遺跡です。
塾跡では天狗党や徳川慶喜の歴史を感じることができます。
この場所はなかなか分かりにくいですが、水戸の弘道館と同等以上のピーク時は約1000人の塾生(生徒)がいて寮も有ったと書かれた今でいう大学後ですが、現在は展示の資料の東屋、説明看板と石碑が有る空き地ですしかさ塾生は天狗党のそうそうたるメンバーもいたようで、平成27ねんに日本遺産に登録されている貴重な歴史遺産でしょうこの場所は僕の読んだ歴史書では当時の徳川斉昭が幕府に許可を得て開拓を進めた農地のひとつとの関連が有ると個人的には思っています天狗党の総代で有る竹田耕雲斎の妻、子供二人が処刑された供養碑は水戸市の下市に有りますが僕は度々訪れて、悲しく悲惨だった事を悔やんでお参りしています天狗党と最後の将軍 徳川慶喜は同じ水戸藩同士で争い、天狗党志士の352人は打ち首処刑させられ、徳川慶喜公は将軍の立場上討伐の指示を出さないければ成らない苦しい心境は死ぬまで忘れる事が出来なかったでしょうし、勿論後悔も有ったでしょう大政奉還を抜きにしては現代までの日本の平和も無かったかもしれませんねたらればになりましたが依って日新塾も最重要な歴史遺跡でしょう幕末及び天狗党に興味が有る方は是非立ち寄って見て下さい。
説明文の看板は、解りやすかった。勉強に成りました。
一度はどんなもんか訪問したかったので場所がわかっただけよかったです!たまたま近くを通った際に思い出し立ち寄りました。私塾として江戸の頃から学びたい人たちを身分隔てなく受け入れてくれたということは画期的だったんでしょうね!そういうことがあって今があるような気もします。感謝。
水戸に加倉井砂山(1805-1855年)という天才がいたとはつゆ知らずにこの地を訪問しました。日新塾は,砂山が自宅で開いた私塾で,桜田門外の変の斉藤監物や川崎財閥の川崎八右衛門など延べ千人以上の門下生を輩出したそうです。元敷地は公園のように綺麗に整備されていますが,私塾であった面影はまったく残っていないことから,砂山という偉人を忘れない水戸の有志達は日新塾の復元を目指して活動していらっしゃるそうです。ここから南西数百メートルの場所に,加倉井砂山夫妻のお墓がありましたが,その時は知らず・・・ここに来てようやく砂山という方を知ることが出来ました。
近くで大きな蜂が飛び回っている。
教育の基本を今に有りけり🥰
日新塾は江戸時代後期、成沢村の加倉井砂山が創立した私塾です。 日新塾の画期的なところは、その門弟を水戸藩士に限らず、郷士、神官、医者、村役人など身分や出自を問わなかったところにありました。 そのため、水戸藩や近隣はもとより、遠く下野、会津などからも門弟が集まったのです。 また身分や出身にこだわらず、人それぞれの個性を大事にするという、加倉井砂山の教育方針によって、さまざまな科目の教育が日新塾では施されました。 中でも、男尊女卑の思想が激しかった江戸時代において、いち早く女子教育をしたことは画期的と言えるでしょう。 日新塾で学んだ塾生は三十年間で三千人にも及びます、 教えていた学科は読書、医学、算数、歴史、理科、詩文、天文、地理など、また武においては練兵、撃剣、馬術、射撃、砲術などは西洋式も取り入れた先進的な私塾でした。 こうした日新塾からは、幕末で活躍した斎藤監物や藤田小四郎だけでなく、明治でも活躍した川崎財閥の創始者である川崎八右衛門や枢密院顧問の香川敬三などの多数の人材を輩出されました。 現在、日新塾跡は水戸の文化財として大切に残され、加倉井砂山の功績とともにパンフレットや休息所があるなど、史跡として整備されています。
道は車一台です、隣は牛舎があります、すぐ横に、塾跡があります。車停まれます。
静かに歴史を感じるところです。
名前 |
日新塾跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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まだ行ったことが有りません。孫が興味を示しているので、今度行って見たいですね!(マップ検索のみ)