武田信玄伝説の舞台。
野田城跡の特徴
武田信玄を狙撃したと言われる歴史ある城跡です。
三の丸周回見学路が整備されており、訪問しやすいです。
444年前の井戸跡が今でも残っている貴重なスポットです。
戦国時代の武田信玄と徳川家康の激闘「野田城の戦い」の舞台として知られています。永正5年(1508年)に菅沼氏によって築かれた菅沼氏の居城です。三河の根元を押さえる要衝であり、小規模ながらも断崖絶壁と深い堀に守られた極めて堅固な平山城(土の城)でした。元亀4年(1573年)、西上作戦中の武田信玄率いる大軍に包囲されるも、城主・菅沼定盈らはわずかな兵で約1ヶ月にわたり籠城し、徳川軍の時間を稼ぎました。また、この戦いの最中に信玄が城内から撃たれた鉄砲の傷がもとで世を去ったという高坂弾正の伝承(諸説あり)でも有名です。現在は本丸跡などが整備され、周囲を取り囲む見事な大堀切(空堀)や土塁が良好に残されており、戦国時代の緊迫感を今に伝えています。
「甲斐の虎、武田信玄が火縄銃によって深手を負った⁉という伝説が残る城」戦国時代の1508年地元の有力者である菅沼定則(すがぬま さだのり 1493~1547)によって築かれました。1572年甲斐の国(現在の山梨県)を中心に勢力を伸ばした武田信玄(たけだ しんげん 1521~1573)は約3万名の兵力を携えて徳川家康(とくがわ いえやす 1543~1616)の治める駿河・遠江・三河へと侵攻、1573年1月25日に三方ヶ原にて徳川軍を完膚なきまでにやっつけると次の目標を野田城に定めた、野田城には菅沼定盈(すがぬま さだみつ 1542~1604)率いる500名が守っており多勢に無勢であり籠城戦を行った、これに対し武田軍は金山の工夫たちを呼び寄せ野田城の地下に穴を掘り井戸を破壊して水を断たせることに成功もはや野田城の兵士たちは降伏寸前であった、この時城で村松芳休(むらまつ ほうきゅう)なる人物がせめてもの野田城を守る兵士たちの慰めとなるよう夜な夜な笛を吹いたという、その美しい音色は城の兵士だけではなく城を攻める武田側も魅了しその評判は信玄の耳にも入った、ある夜信玄はその笛の音を聴くために野田城の近くへと足を踏み入れた、笛の音が始まったその途端城側から一発の銃声が聞こえた…翌日城側は降伏し城主である菅沼定盈は捕虜となるもどういうわけか武田軍はここで甲府へと引き返した…それからほどなくして武田信玄はこの世を去ったという…「信玄はあの時火縄銃によって狙撃され深手を負いその傷が元で亡くなったのではないか?」というのが伝説であります…野田城は1590年に徳川家康がその本拠地を関東に移すさいに廃城とされました、後の世の江戸時代である1719年にその城の本丸にあった門が隣接する法性寺に移築され現在でもその姿を見ることができます。(火縄銃によって信玄は狙撃されその傷を負って命を落とした…これは伝説と言われていますが、それから2年後のここから約15キロ程離れた長篠の地において再度三河を侵攻した武田軍は織田・徳川連合軍の火縄銃を巧みに使った戦術により敗走したと伝わっております、野田城の戦いそして長篠の戦いいずれも火縄銃がポイントとなっていることから果たしてこれは偶然でしょうか?もっともこの野田城におけるエピソードは確証がないためわかりません、皆様はどう思いますか?)見学に際しては無料の駐車場がございます、城趾全体はほぼ森な為に足元には注意して探索してください。なおイノシシやマムシに注意!
東側に5台ほどの🆓駐車場有。木々に覆われていますが、縄張りはかろうじて判別可能かと。北・東側の崖の比高は籠城戦向き?
城郭が残っているわけではありませんが、壕跡などで城全体の構造を知ることができます。映画「影武者」にも出てくる信玄狙撃説は後付けの作り話ではないかとずっと疑ってきた一人ですが、現地に行くとそれが真実であることを示す証拠を突きつけられているような気がしました。
駐車場が無く、三の丸登城口前の広い空地を利用させて貰い本丸登城口より登城。本丸には空堀や土橋、土塁等の遺構と共に信玄公狙撃場所等ある。本丸から三の丸方面には散策路が無く、本丸登城口から道路に出て三の丸登城口からの再登城が良い。城内には空堀や土塁、曲輪の表示もあり散策し易い(三日月堀もあり)。三の丸出口から出ると駐車した空地に出る。少し離れているが野田城移築門も観ても30分程で散策ができた。
久々に来てみて、三の丸周回見学路があったこと。南側の出入り口が枯れ木でふさがれて通れないようにしてあったのが大きな違いでした。駐車場は無いです。JR野田城の駅から大野田城を見て南からの道で法性寺の山門を見て野田城に来ると、よい運動になります。
野田城駅から徒歩で向かいましたが、およそ20分程かかります。城址内は木々が生い茂り、空堀跡と井戸跡程度しか遺構は残っていませんでした。城址としては小さいので、すぐに見て回れると思います。8月に伺いましたが虫がすごいです。虫よけスプレーを大量に体にふりかけましたがほとんど意味をなさず、沢山の虫刺され跡が残りました。夏はご注意ください。城址内には武田信玄公を狙撃した場所としての看板が立っており、近くの神社にも信玄公が狙撃されたという場所があります。どちらも整備されている訳ではなく、特に狙撃された場所は蜘蛛の巣などがひどく、近付くことを躊躇うほどでした。信玄公を狙撃したとされる銃の実物は設楽原歴史資料館で展示されています。
2023年7月24日行って来ました。行き方Googleナビで野田城跡にセットすると行けます。撮影済み駐車場専用駐車場は無し、但し車を停めるスペースは有ります。感想規模的に大きくは無い城跡ですが、武田信玄狙撃場所や井戸が有り、南東の方角に武家屋敷跡など見所は沢山有ります。見学の際は足元に十分気を付けて下さい。後、北西の方角には二の丸、三の丸が有りそちらも合わせて見学をお勧めします。撮影済み。
信玄狙撃伝説の遺る城。野田城址は子供の頃から存在は知っていましたが初めて入りました。鬱蒼とした森の中すぐ本丸で、段々に曲輪が連なる縄張りのようです。本丸下には綺麗に堀が残り土橋を渡って入る構造は作手古宮城址に似てました。本丸入口を降り右手すぐ脇にお寺があり野田城の移築された門が今も残ります。野田城は信玄狙撃伝説があり、城内には狙撃場所が残り谷を隔てた所に信玄が撃たれたとされる場所が遺ります。用心深い信玄がこんな近くにいたのでしょうか。城址マニアには見応えある城址だと思います。
| 名前 |
野田城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP |
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,22250,149,722,html |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
野田城(愛知県新城市豊島本城)永正2年(1505)田峯菅沼の菅沼定忠の三男定則が野田菅沼氏の祖となる。管沼氏は今川氏に属していたが、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で討ち死すると松平元康(家康)の幕下となった。天正元年(1573)武田信玄は東三河攻略し野田城も攻撃目標となり信玄は城兵、村松芳休の笛の音に聞きほれ城兵の鳥居三左衛門が火縄銃を撃ち信玄に傷を負わせ、これがもとで死去したという有名な伝説?がある。また、武田方が野田城を掘り進め井戸水抜いたが城兵に1日お椀3杯水を送ったという話が伝わる。(日本城郭体系9より抜粋)伊那街道の豊島交差点を南下すると城案内板のある入口がある。駐車場は南に100mほど下ると新しい無料駐車場があります。北から三の丸、二の丸、本丸、さらに今は痕跡のない侍屋敷が。入口から進み南に空堀の土橋を渡ると広い平坦な本丸、高台に稲荷、井戸、なんと信玄公狙撃場所の標識もありました。土橋を戻ると2の丸で土塁、空堀がみらます。二の丸、三の丸へは道路に戻り北側の入口から入ると標識が充実していて平坦で周回できました。未確認ですがマップでみると信玄公被弾場所もあるようです。信玄公三河攻略で撤退の要因となったかもしれない重大な歴史を感じられる城跡です。