歴史を歩む犀ヶ崖の感慨。
犀ヶ崖古戦場の特徴
三方ヶ原の合戦の舞台となった歴史的な古戦場です。
犀ヶ崖資料館では合戦の詳細を理解できる展示が充実しています。
整備された崖の景観から戦国時代のドラマを感じることができます。
【2024年9月14日☀️】浜松城行ったら犀ヶ崖もいかないとねということで激暑☀️の中歩いて行きました道的には真っ直ぐ登って行く感じで難しくはない…がバス推奨かもね!もっと山の中とかを想像してたんだけど、意外と町の中にあった😛実際に崖を見れるなんて!なんて興奮してたんですが…木が『うっそ~!』というくらい鬱蒼と繁ってよく見えないよく見えないけど想像を膨らませてね😛中に入るとガイドさんが2名いらしゃいまして、説明してくださりましたビデオ映像もあり崖の木の繁ってないバージョンも見れました(ガッツポーズ)ビデオを見てる時に夏目次郎左衛門吉信の話しになり、女性ガイドさんが顕彰碑までいろいろ話しながら連れて行ってくれました(顕彰碑は道路挟んで斜め左。近いです)ドラマの影響で夏目さんの人気が爆上がりしているとか、最近の小学生のお子さんは私より詳しい!とか、崖は本当はもっと深かったとかおっしゃってました😀楽しいお話をたくさんありがとうございました行って良かったなー!😛
この古戦場は、徳川家康が武田信玄に大敗した後、夜襲を仕掛けて武田軍を崖下に落とした場所として知られています。この戦術は、地元の地形を熟知していた家康ならではのもので、武田軍に一矢報いることができました。見晴らし台があり崖の深さを実感できます。崖に布の橋を掛け、武田軍の目を欺き、次々と崖に転げ落ち大損害を被ったという伝説があり、現在の「布橋」という地名もこの伝説に由来しています。当時の地形とは変わってしまっていますが、当時は東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁でその深さは約40mに及んでいたそうです。現在は浜松城跡の西北約1kmにある渓谷で、この谷地形が長さ約120m、幅45mにわたって史跡指定されています。機会があれば渓谷や台地形の様子を見ながら散策してみたいです。
犀ヶ崖古戦場(さいががけこせんじょう)所在地 浜松市中区鹿谷町25-10訪問日 2023/9/13現在は開発が進み、当時の地形とは変わってしまったそうです。昔は、東西2km•幅50m•両岸とも絶壁で深さは40mに及んだと云われる。この谷に布を渡して、地理に不案内だった武田軍を罠にかけ、大打撃を与えた場所ですね。
犀ケ崖資料館の職員の方が館内から直ぐ外に出て来られ崖を見学し始めた私達に説明をして下さり、崖は当時は浜松城周辺迄2km程あった事等を説明して下さいました。資料館は無料ですが、狭いので混み合うと少々見辛い状況になります。(途中団体客が入館して来た為、退館しました。)敷地内の本多忠真の碑と道路を挟んだ向かい側数メートル先の夏目吉信の碑を同時に見学するのが良いかと思います。
資料館内のジオラマが精巧で、当時の状況が想像でき、とてもよかったです。崖はちゃんと保存されているんですね。資料館の外になるので、お見逃しのないようにwww
三方ヶ原の合戦の一部と見なされる古戦場です。かつては幅50m、深さ40m、長さ2kmもの規模があったとされる犀ヶ崖も、長年の間に崩れたり埋められたりして、今では幅30m、深さ13m、長さ400mほどと小さくなりました。昭和11年の埋め立てにより、西端は国道257号線で途切れていますが、合戦当時はもっと北西方向に延びていたものと私は想像しています。「仮に犀ヶ崖が存在せず浜松城周辺の地形が平らであったなら、武田軍は多くの兵を崖から転落させることもなく、2万5千の大軍で浜松城を攻めることもできたのでは?」と私は考えました。もし武田軍が総力戦を仕掛けたとしたら浜松城は攻略され、家康は討ち取られたか降伏していたことでしょう。その結果、浜松は武田領となって高天神城の戦いは起こらず、長篠の戦いはあったとしても戦況は変わり、関ヶ原の戦いすら起きなかったかもしれません。当然徳川幕府による江戸時代も誕生せず、今日に至る450年の歴史は全く異なっていたはずです。そのような理由により「犀ヶ崖および浜松城周辺の地形そのものが日本の歴史に大きな影響を与えた」と私は考えています。天然の要害とも言える地形を巧みに利用した、家康の築城センスは見事というほかありません。武田軍が野営していた場所は北高校東側一帯と推測しますが、当時は数本の谷が入り組んだ台地でした。そのような場所で闇夜に鉄砲隊が脅しをかければ、戦で疲労した末に寝込みを襲われ、地理不案内な武田軍は混乱して、次々と谷底に転落していったことでしょう。もっとも「空城の計」や「夜襲」等は後世の作り話との説もあります。また白い布を雪が積もった橋に見せかけたという「布橋伝説」も、確かな文献はなく技術的にもあり得ないため、「小豆餅食い逃げ」の類いの、浜松市に伝わる多くの家康伝説のひとつだと思っています。合戦後の十数日間、武田軍は三方ヶ原からわずか数km先の刑部(おさかべ)村で停滞し越年しています。その間、家康はさぞ眠れない日々を過ごしていたことでしょうが、幸いにも浜松城は攻撃を受けませんでした。四ヶ月後に死を迎える信玄の病状が悪化していたためか、信長の援軍が駆けつける恐れがあったためか、信玄と息子の勝頼は31歳の家康を軽視して、三河の野田城攻略にと向かいました。何れにしても浜松で家康を見逃したことが、天目山にて勝頼が信長・家康連合軍に滅ぼされる痛恨の結果につながりました。ちなみに2ヶ月半ほど前の「一言坂の戦い(磐田市)」でも、家康は武田軍から見逃されています(真偽は不明)。歴史的には「三方ヶ原の合戦は家康の大敗北だった」とされています。しかし犀ヶ崖の夜襲により一矢報いて武田軍を退却させたことが事実とすれば、実質的には「7対3程度の負け戦」であったと私は見ています。幾多の戦を生き延びて75歳の長寿を全うした家康は、実力のみならず幸運にも恵まれた男だったと言えます。
▼三方ケ原合戦で、家康軍を圧倒的な強さで蹴散らした武田軍は、浜松城近くのこの犀ヶ崖まで侵攻してきました。▼家康軍はこの崖に布で橋を渡したところ、武田軍の多数の武者が橋が布であることを知らず崖下に落ちたとの伝承が残っています。かなり深いですよね。
☆1573年(元亀3年)、三方ヶ原の台地上で武田軍vs徳川・織田軍激突⚔️徳川・織田軍は『甲斐の虎/武田信玄』の前に完膚なきまでに大敗北総崩れ、徳川家康は何とか僅かな供廻りだけで浜松城へ帰城🐎☆武田軍は浜松城北西1kmの犀ヶ崖周辺に野営、日中の合戦で大敗北した徳川勢、深夜寝静まった頃、一矢報いようと家康の命令で大久保忠世・天野康景らにより武田陣地を夜襲、鉄砲一斉射撃、武田軍は深夜で大混乱、地形分からず犀ヶ崖に転落する武田軍兵士続出したとか😓☆中々規模の大きい崖、幅30mu0026深さ15m、浜松城からも近いです、綺麗に整備されていて資料館もあり見学すると合戦状況が良く分かります😁無料駐車場もあるので助かります🚙直ぐ近くに、夏目次郎左衛門と本多忠真の石碑も❗️
三方ケ原の戦いの最後の戦場というべきでしょうか?布橋の戦いといわれてることもあります。この崖を巡る徳川対武田の戦いの場所です。今でも崖は残っていますが、当時と比べると、幅、深さ、長さの全てで縮小してしまっています。今の規模なら布をかけることはできたかもしれませんが、当時の規模では不可能でしょう。徳川方の大久保氏が浜松城に残っていた15挺の鉄砲を持って、ここで崖向こうの武田方の山県氏などに向かって鉄砲をうち誘いだし、多くの武田兵が崖から落ちて亡くなったのは事実のようです。亡くなった人のうめき声が続き、それを沈めるために遠州大念仏が広まったそうです。横の資料館はオススメです。今も、雰囲気だけは感じられると思います。今後もこういう場所をちゃんと保存していって欲しいです。
名前 |
犀ヶ崖古戦場 |
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ジャンル |
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電話番号 |
053-472-8383 |
住所 |
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HP |
http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4dd1cbeeb0051.html |
評価 |
3.9 |
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小さな史跡ですが、大河ドラマに絡めて説明があるので感慨に浸れました。