重厚な趣きを持つ日蓮宗大本山。
北山本門寺の特徴
日蓮聖人の弟子、日興上人が開いた古刹です。
富士五山の一つで、駐車場から仁王門へ参道が続きます。
落ち着いた雰囲気の中で御朱印や御首題を頂けます。
六老僧日興由縁の富士五山のひとつ。こちらは日蓮宗本派に属しており大石寺とは袂を分かっているが、寺号が本門寺で日興の廟所まであるということはこここそが富士門流の中心ではないか?仁王門はやたら豪華だが他は大したことはない。それより日興の墓が思ったより簡素でびっくりした。
20221123雨なので、本山めぐり。間違えて手前の養仙坊の駐車場に駐車。小さいが随分綺麗に手入れされているなと勘違い。すぐに気がついたが。本堂に参拝。ご自由にとあったので、上がらせていただく。大本山らしく、僧侶の席が沢山あった。鐘や太鼓も置かれていた。(太鼓が3つはあった。)元富士門流の総本山らしく、日興上人の意気込み「本門戒壇建立聖地」が感じられるいいお寺だった。庫裏にてご首題をいただくおり、上人と少しお話する。板曼荼羅は板に墨が滲むように書く(木の油で墨が弾かれる)。ただし、木なので乾燥で割れたり曲がったりして、痛みやすくあまり残っていない。全国的なお手伝いのときは、南無(む)妙法蓮華経と唱えるが、地元では南無(ん)妙法蓮華経と唱える。(始めからかは分からない)私が訪れた寺の話。上人が訪れた寺の話。(法縁や規模等等)本山カードもいただけたが、やはり都会と違って貰いにくる信者は少ないらしい。楽しかった。
荘厳で重厚な趣きを持った寺院ですね。五山の一つ西山本門寺を見てから訪問ゆえに何故か同じ宗派でこの落差は?どの分野でも栄枯盛衰は有ることが悲しくなりますね。
国道バイパス北山ICからすぐの道路沿いに在る日蓮宗の大本山で正式名称は『富士山法華本門寺根源』と言われ一般的には北山本門寺または重須本門寺と呼ばれる。日蓮大聖人の直弟子の日興上人が創建された日蓮宗霊跡寺院で歴史的なお寺ですが参詣者は少なく穏やかな雰囲気を醸す寺院でした。境内には『本化垂迹天照大神宮』と称す神社が在り本門寺創建時から鎮座されているとの事で神仏習合の由縁でしょうか!日興上人所縁の富士山麓の有力な寺院を富士五山と称し北山本門寺も含まれている様です。若き僧侶様直書きの御首題を拝受しましたありがとうございます。
七つある日蓮宗の大本山のうちの一ヶ所です。が、こちらの上人様も気さくに御首題を対応していただけました。こちらは近くの實相寺と違い、比較的平地にあるのでお参りしやすいかと。ちなみにトイレの場所が少々分かりにくいので順路を。1.靴を脱いで本堂へ上がる2.中へは入らず、欄干に沿って本堂左側を歩く3.橋を渡ってコンクリート造りの建物がトイレ。参考まで。
趣があって、静かな場所です❗
季節外れの秋雨前線でお盆のお墓参りが1週間遅れてしまいました。蝉の鳴き声もツクツクボウシに代わっていました。そんな本門寺の鐘楼です。
令和2年11月吉日参拝 御首題を頂戴いたしました。ご上人様から丁重なご説明を受けました。駐車場は山門西側道路にあります。
兎に角広い面積で見応があります。住職さんも感じ良く迎えて下さり綺麗に行き届いた所でゆっくり見学出来ました。寺院と富士山は、コラボレーション抜群です。
名前 |
北山本門寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0544-58-1004 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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日蓮聖人の六大弟子の一人、日興上人が開いた日蓮宗の本山格寺院。日興上人は身延の地頭の南部実長と喧嘩別れをし、身延山退去の後に紆余曲折を経てここへ本陣を構えた。当初はここより西にある上野の郷に身を寄せ、上野の地頭であった南条家によって建てられた大石寺に住んでいたが、後にここ北山の地頭であった石川家によって重須の寺が建てられ、大石寺は南条家出身である弟子の日目に譲り、自らは弟子を引き連れてこちらの重須に本陣を移した。他の五人の老僧達は日興上人を心配してこちらの北山へ何度も訪ねており、そのことからも大石寺中心ではなく北山中心であったことがわかる。晩年鎌倉幕府の迫害により、鎌倉の地を追われた日頂上人は、北山へ日興上人を頼り、ここ北山で生涯を終えている。また日蓮聖人亡き後、鎌倉幕府と直接対峙をしていた日朗上人は、鎌倉から北山へ日興上人を訪ね、安置されている祖師像を拝観した時に「我が師匠はここにおわしましたか」と像に飛び付いて泣いたと言われている。以上の経緯から大石寺には既に日興上人はおらず、大石寺中心と日蓮正宗の連中は言うがそれはあり得無い。大石寺は血脈論を振り回して富士派のマウントを取ろうと躍起になっているが、後釜争いが絶えないのも現状である。古くは大石寺4世を主張した南条家出身の日道と、実際に日目から死ぬ直前に後を任された日郷との争いがあり、その時は北山としては日郷側を支持している。また記録では代官や奉行、多くの関係者が日郷こそが4世であると主張しており、北山と大石寺はその頃から疎遠となってもいる。大石寺側は日郷を追い出したことに成功したものの、唯一の日蓮直筆の万年救護の本尊を持ち去られてしまい、暫くはもぬけの殻状態になってしまったが、9世日有の時代に板曼荼羅を作成し、これこそが実は日蓮聖人が出世の本懐として残された究極の本尊だと嘯いた為、北山側としては日浄上人が対応し「日有は未聞未見の板曼荼羅を作成し世間を欺いた」と論破している。その事に耐えきれなくなった日有は幼い小僧に大石寺を任せて山梨の杉山へ身を隠してしまった。大石寺17世日精あたりまでは「弘安二年に日興が賜った萬年救護の本尊は保田にあり。」と言っていたが、26世日寛から教義を一新し、「戒壇本尊は究極中の究極の本尊」と教義を改変してしまう。31世日因は過去の歴代の書物を改竄し、「弘安二年の大本尊当山にあり」と改悪し、それは富士宗学要集にも残っており、読み取れることができる。創価学会が大石寺信者であった時代は田舎寺にバブル到来のごとく大きく発展し、創価学会破門後は学会脱会者を取り込んで細々とやっているようであるが、相変わらず豪華絢爛な建物を建てて見栄えだけ良くしているが、地元富士宮の住人から気味悪がられており普段からお参りに行く一般人はいない。さて、こちらはそんな隣の豪華絢爛な寺院と違って質素には見えるが、しっかりと伝統を感じることができ、嘗ての富士五山の中心的寺院であったという風格すらある。隣の寺は虚偽で固めてひたすら信徒を会得し、内部分裂を繰り返してはお互いを攻め合い、ただただ金太りしていくだけの異様な光景になっているが、こちらはそれを横目にしながらも全く微動だにせず、堂々として余裕すら感じる振る舞いである。そして何より日興上人の正墓はここだけである。大石寺の坊主ですらこっそり墓参に来ているくらいであるから、大石寺に日興上人の骨が無いことは良く分かるであろう。