金堀峠の絶景、富士山と探検。
仙元神社の特徴
戦前の地誌『狭山之栞』に記された由緒ある神社です。
小さな祠から見る富士山は絶景で心が癒されます。
探検気分を味わえる尾根沿いの道のりが魅力です。
多摩湖自転車道から、車道を渡った側に入口があります。とても解りにくいです。でも、凄く雰囲気の良い場所です。
祠だけある小さな神社です。
小さな祠ですが由緒ある神社で、裏山からみる富士山は絶景です‼️
探検しているような道のりです。谷津公会堂の脇から登っていきます。もしくは自転車道から。
神社の向かいの三段くらいの階段を降りていくと東京都川の市街地へ降りられそうです。私は途中で引き返しましたが。道は草ぼうぼうです。
熊野神社の右脇から入り尾根伝いに進むと鳥居があります。製造年月不明の明神鳥居で、木に金属板を張った作りですかね、鈍い音がします。階段は9段程度ですが参道が山道なので急ぐと疲れます。
熊野神社の右脇から入り尾根伝いに進むと鳥居があります。製造年月不明の明神鳥居で、木に金属板を張った作りですかね、鈍い音がします。階段は9段程度ですが参道が山道なので急ぐと疲れます。
富士講を信仰行事とした山中の社だそうです。傍に富士塚がある。
名前 |
仙元神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.6 |
周辺のオススメ

まず,戦前に書かれた地誌『狭山之栞』によると,この神社が建つ山を「金堀峠」と呼ぶそうだ。なんでも中藤村の長者が金を掘り当てる目的で穿たれた洞窟が峠の中腹に二~三あり,それ故にそう呼ぶのだとか。私は自転車道側からここに来たので,中腹は通っておらず,その洞穴が現存するかどうかの確認はしていない。洞穴の一つには如来の石像が安置されているという。また,浅間神社について,武蔵村山市のサイトに以下の様な説明書きがあった。ーここからー市内の中藤谷津地区に富士講を伝えたのは、富士講中興の祖食行身禄(じきぎょうみろく)から五代目にあたる先達星行(せんだつせいぎょう)であるといわれています。このときに星行から直接教えを受けたのが中藤村の山行星命(さんぎょうせいめい・俗名藤七)と呼ばれる人物でした。谷津地区に残る富士講文書の中には星行の署名が残されているものとして、寛政元年(1789)のお伝え、文化3年(1806)のお身抜、文化10年(1813)の政事之巻の3つがあります。また、これらの古文書から谷津富士講が始まったのは寛政から文政期にかけてであることがわかりました。ーここまでーここでいう星行とは,江戸中~後期を生きた修験者であり,俗名は森猪兵衛と言った。また,星旺とも表記される。彼は関東各地を流浪し,富士信仰に関する布教活動を行っていた指導的な先達とされる(鳩ケ谷の小谷三志に教えを説いた人物としても知られる。)。しかし,あまり研究が進んでおらず,その出自の良く分かっていない人物でもある。社殿裏側に石造物があったが,ここにも星行の名前が確認できた。以下の通り,観察情報を記載する。丸彫趺坐如来像】文化三年六月建之銘。側面に「俗名 江戸麹町十三丁目 鮎屋猪兵衛」とあるが,どうやら星行のことを言っている様だ。星行の別名が「鮎屋猪兵衛」であったこと,それと「江戸麴町十三丁目」に住んでいたことが推察される。この情報は貴重ではないか。いずれにせよ,ここからも星行と当地の関係性が窺い知れる。石祠】文化十四年三月建之銘。砂川村の丸玉講中によって奉納されたものと分かる。この頃には,砂川村にまで信者を獲得していたことが了解される。丸彫趺坐如来像2】正面に辛うじて「山崎徳兵衛」「…嶋…行……」「青木……」という文字が見えるが,撮った写真の解像度が低く,翻刻できなかった。