大飯高浜の伊射奈伎神社、立派なお社。
伊射奈伎神社の特徴
福井県大飯郡おおい町の佐分利川の上流に位置する神社です。
立派なお社が参拝者を迎える神聖な場所です。
新しくなった額が印象的で美しさを感じさせます。
伊射奈伎神社(いざなぎじんじゃ)は福井県大飯郡おおい町福谷の佐分利川の上流域で大飯高浜ICから北西1kmに鎮座する神社です。ご祭神伊邪那岐命旧社格郷社延喜式神名帳にある、大飯郡7座の式内社(小社)広い境内は、地元住民の方々から大切にされているようで、綺麗に整理されており、鳥居、社内案内板、灯篭、手水舎、巨木、狛犬、拝殿、覆屋、本殿、境内社などがあります。創祀年代は不詳ですが、明治までは天満宮と呼ばれていたそうで、佐分郷十七ヶ村(野尻、父子、満願寺、広岡、神崎、岡安、笹谷、鹿野、小車田、佐畑、石山、久保、福谷、安井、川關、川上、三森)の大社として崇敬されていたらしいです。鳥居には「伊射奈伎神社」と記された木製の扁額がかかっています。境内社には稲荷社、八幡宮などがございます。巨木・古木が多くあり、ウラジロガシは福井県指定天然記念物で、ツガ(栂)はおおい町指定天然記念物となっております。その他にもサカキ・タブノキ・シイ・ツバキがあります。社内案内板天章文と写経おおい町指定文化財周文写経(5巻)管理者福谷区(1巻)・おおい町(4巻)指定日昭和63年8月1日材質技法紙本墨書時代室町時代前期周文は室町時代中期の画僧で、字は天章、号は越渓と称した。画を室町水墨画の先駆者である如拙から習得したと思われ、後に如拙の後を継ぎ足利幕府の御用画師となった。周文の画風は雪舟や小栗宗湛など多くの水墨画家に継承され、東山文化の開花につながった。伊射奈伎神社は、昔「福祥山隆興寺天満天神」と称佐分鄉17ヶ村の大社であった。この社前に「善「楽寺」という真言宗の別当寺があったとされ、周文3年ほど身を寄せていたと伝えられている。この善楽寺において大願を抱いて五部大乗経200巻を写経100巻を綾部市奥上林の君尾山光明寺に、残り100巻を天満天神に奉納したと伝えられ、現在41巻が遺されている。写経の末葉には「時に応永十三年(1406)丙戌五月二十二日若州大飯郡佐分鄉善楽寺に於いて大願主周文謹んでこれを書す」と奥書が記されている。おおい町教育委員会おおい町文化財保護委員会(2023/1/22撮影)
大変立派なお社です。
額が新しくなっていました。
| 名前 |
伊射奈伎神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP |
http://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20160106_155940 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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書により「伊射奈伎神社」をしらべてみる【佐分利村誌】には 「延喜式(えんぎしき)伊射奈伎神社」ではないか」とあるが、【特選神明牒】には明確な“あかし”がないのでわからない、とあり、「伊射奈伎神社」に関しては すべて無記入 の状態となっている。又【特選神明牒】には7代つづけて「天神社」と称していたのを「天満宮」と書上して「天満宮」と称した、と神社の歴史に「心得違い」な行為があったと、指摘していて、不興をかっていることがわかる。【佐分利村誌】に“ある書“が紹介されている。文永2年(1265年)に書かれた書であるというその書には、応永11年(1404年)の鰐口(わにぐち)の話が出てきて、頭の中にはてなマークが浮かんでしまうが、私はこの書は明治後期に書かれたものであると考える。その書に合わせて書いてみると応永11年(1404年)の鰐口(わにぐち)があり、これに「天満天神」と記されている、とある。明治元年に小浜藩国内神社調べの時、「天満宮」と書上してしまうわけであるが、これが祭神に分別なき里人の天満天神と信じたる時代もありてに当たるわけでそして「伊射奈伎明神」たるに疑惑を生ずるに至りたるならんか」となるのである。_________________❶【参考 佐分利村誌 昭和4年(1929年)】伊射奈伎神社[祭神] 伊弉諾尊(いざなぎのみこと・神産みの神)・もとは「天神社」と称していたが、明治5年(1872年)に「伊射奈伎神社」と改称した。・元亀元年(1570年) 神社の建物やその周辺が火事により焼失。それ故に由来不詳となるのだが、古老のつたえに依ると「延喜式(えんぎしき)大飯郡(おおいぐん)伊射奈伎神社」はこの神社であるという。[沿革]・創立年月不詳である。・元亀元年(1570年)火事により焼失し由来不詳となる・正保2年(1645年)小浜藩の藩主「酒井忠勝」祈願と記録されていて、神殿を補修したという。・明治4年(1871年)小浜県において「郷社」に列する・明治5年(1872年)「天満宮」から「伊射奈伎神社」と改称する・大正元年(1912年)「神饌幣帛料供進神社」に指定される[境内末社]・八幡神社 【祭神】 応神天皇(おうじんてんのう・武神)・稲荷神社 【祭神】 倉稲魂命(うかのみたまのみこと・五穀豊穣の神)・山神社 【祭神】 大山祇命(おおやまつみのかみ・丘陵の守護神)[鎮座地] 佐分利村福谷小字宮前に鎮座[旧社格] 郷社ー・-・-・-・-・-・〇[若狭郡県志]〇[若狭名跡志]〇[若狭総田敷牒]この3つの書は私には確認は取れなかった。〇[若狭総田敷牒]にいたっては、紹介されている年号と内容が合わない為に何かしらのエラーがあることがわかる。❸【参考 佐分利村誌 昭和4年(1929年)】〇[若狭郡県志]「福谷天神社、福谷村之内上村に在り、産神である、9月15日祭日、しかも神事で能あり、正保2年、酒井忠勝公、祈願の事あり、しかも神殿修復せし」〇[若狭名跡志]「天神祠社 福谷村上条にあり、鳥居の礎石、石山村にあり、里人これを外の華表路と称す、生保2年 酒井少将忠勝公、祈願の事あるによって、神殿を修補したまう、例祭は9月16日、能あり、鹿野、小車田、佐畑、石山、川関、安井、久保、三森、川上、以上10ケ村立会」とある。〇[若狭総田敷牒](京都教王衛)文永2年(1265年??)「福谷宮 七反と又た同神社所蔵の応永11年(1404年)の銘ある鰐口(わにぐち)には「天満天神」と記せるあり。要するに福谷宮又は単に「天神社」と称したたるより祭神に分別なき里人の天満天神と信じたる時代もありて、「延喜式(えんぎしき)」にかかげられたる「伊射奈伎明神」たるに疑惑を生ずるに至りたるならんか、本社には往古宮寺なるものあり、善楽寺と称せしことは現に同神社所臓の古物像及び経巻の奥書に微して炳焉(へいえん・明白であるという意味)なり。同経巻は僧「周文」が善楽寺において書写したる一切藏経中の部分なり。つたえいう、半部は丹波何鹿郡 君王山にわかつとそして、奥書の分に干時応永13年丙戌5月22日於若州大飯郡佐分郷善楽寺書写の大願「周文」と記セリ。当寺の廃頽(はいたい)せる年時、つまびらかならざるも、別当の寺院ありたることは疑いなし、とある。___________❷【参考 特選神明牒 1925年】若狭国42座 遠敷郡16座「伊射奈伎神社」【祭神】 ー記載なしー【祭日】 ー記載なしー【社格】 ー記載なしー【所在】 ー記載なしー飯盛村の内、「荒木」という所に「伊射森」という所がある。「伊射奈伎神社」の旧跡地であると伝わる。又、福谷村「天満宮」はむかし第7代「天神宮」と称していたのを明治元年小浜藩国内神社調べの時、「天満宮」と心得違いな書上をして「天満宮」と称すれども、「伊射奈伎神社」なる事、分明なりと云りいかがあらん附て後考にそなう、とある。