静謐な馬場美濃守の墓。
馬場美濃守信房の墓の特徴
武田四天王の一人、馬場信春公の立派なお墓です。
長篠の戦いで奮闘した馬場美濃守信房の首塚です。
周囲には畑が広がる静かな場所に位置しています。
武田四天王の1人、馬場信房公のお墓。数年ぶり2回目の訪問。長篠城から徒歩で5〜10分位。畑に囲まれています。看板があるので徒歩で道を間違える事はないと思います。馬場信春が好きならオススメ。お墓と説明板があります。人によってはパワースポットになるかも。私的には武田家臣の中で好きな武将の1人。ここに来ると力がもらえる気がします。10分位いましたが他に観光客は来ませんでした。
☆やっと来れました、長篠城址の西側にひっそりと佇む築城の名手「馬場美濃守信春」の墓🙏※最終的名前:信房⇒信春武田信虎・信玄・勝頼と武田三代に仕えた知勇兼備の武将、武田二十四将にして武田四天王の一人(山県昌景・高坂昌信・内藤昌豊)⚔️やはり城郭好きにとっては武田流築城術の名手として礼拝、馬場美濃守が携わった城は数しれず、武田家特有の丸馬出に三日月堀、土塁を使った複雑な虎口・横堀・竪堀・切岸など、武田氏の重要「城塞」拠点を殆ど任された事に武田家の中での信頼の厚さも感じます‼️☆甲州武田家「土の城」現存例・諏訪原城…7つの丸馬出、高天神城攻略拠点・田中城…全国的に稀な円郭式縄張・小山城…三重の三日月堀が必見・古宮城…三河の拠点「土の城の到達点」の異名※松本城の前身…深志城も縄張築城など、古来からの土造りの城の妙味が実感出来て凄く面白い城の数々、楽しい😄
皆さんの口コミにあるように武田四天王の一人馬場美濃守信房公の墓です。武田3代に仕え最後に長篠の戦い…勝頼公が無事帰路につき殿の役目を果たした時に何を感じたのでしょうか?わずかな兵をひきいての殿…その死に様は美濃守の名を後世に遺す事になります。手を合わせずにはいられない…そんな霊を祀っています。
武田四天王の一人、馬場信春公のとても立派なお墓です。長篠城址から徒歩10分ほどの場所にあります。畑の中の拓けたとても静かな場所で、きれいに整備されていました。実際に討ち死にをした場所は豊川に架かる猿ヶ橋付近で、そちらの近くにもお墓があります。こちらのお墓は討ち死にした後に、首が埋葬された場所だと言われています。享年62歳ですが、それまでの戦でかすり傷一つ負わなかったため「不死身の鬼美濃」と言われていました。長篠・設楽原の戦いでは殿(しんがり)を務め、武田勝頼公が落ち延びるのを見届けてから自ら首を差し出したと言われています。その時まで、やはり傷一つ負っていなかったそうです。
2023年12月26日に墓参しました。天正3年1575年の長篠の戦いで武田軍の殿(しんがり)を務め、戦死した馬場美濃守信房の首を埋葬した場所です。
長篠・設楽原には鬼美濃の墓が3ヶ所もある。ここが一番立派だけど、殿を勤めて勝頼を信濃路に逃した事を加味するとここより、信州側の北側の2ヶ所の方がそれらしい。特に一番北は山の斜面の中にそれらしく。
長篠城の跡をめぐりながら歩きました。馬場美濃守信房は、武田信虎、信玄、勝頼の3代に仕え、40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったされる武将。そのため現代では、「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されているそう。長篠の戦いでは、退却する武田軍の殿をつとめ、内藤昌秀と共に残った兵数百で連合軍の大軍を阻んだ。追撃する織田軍と戦い、織田家家臣原田直政の配下、河井三十郎に討ち取られたとも、首を差し出したとも言われる。以上ウィキペディアより。
武田四名臣の1人馬場信春(信房)公のお墓です。長篠、設楽の戦いで殿を務め無事勝頼を退却させた後に壮絶な討死したとの事。近くに中央構造線もあるので良ければセットで見に行かれる事をおすすめします。
不死身の鬼美濃と言われた、馬場信房の墓です。今回、長篠城周辺 の史跡巡りの最大の目的でした。馬場信房は、武田四天王でも山県昌景の次に好きな武将です。武田三代に仕え武田家を支えた大黒柱の一人です。最期まで武田家の為殿を努め、武田勝頼が無事落ち延びたと知った後にあえて敵兵に首を与えたと言う話にも感動しました。
| 名前 |
馬場美濃守信房の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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天正3年(1575年)の「長篠・設楽原の戦い」で戦死した武田軍の重臣・馬場美濃守(信房)の墓所です。馬場美濃守は武田信玄・勝頼の2代にわたって仕え、数々の戦功から「不死身の鬼美濃」と称された智勇兼備の名将です。長篠の戦いにおいて武田軍の敗色が濃厚となる中、勝頼を敗走させるための殿(しんがり)を引き受け、織田・徳川連合軍の追撃を命がけで食い止めました。勝頼の脱出を見届けた後、豊川(寒狭川)の近くにある出沢(すざわ)の地で殿戦を全うし、壮絶な戦死を遂げました。現在、戦死の地とされる場所の近くに墓碑がひっそりと佇んでおり、武田軍最期の一戦を支えた名将を偲ぶ史跡として大切に守られています。