武田軍の歴史探訪、長篠の戦い。
和気善兵衛宗勝之墓・伝高坂又八郎助宣之墓・横田十郎兵衛康景之碑・伝小山田五郎兵衛昌晟之墓の特徴
長篠の戦いで戦死した武田軍の4将のお墓が点在しています。
新東名高速道路の新城インターから約5分でアクセス可能です。
武田ファンにはぜひ訪れてほしい歴史的なスポットです。
長篠の戦いで戦死した武田軍の、和気善兵衛宗勝、高坂又八郎助宣、横田十郎兵衛康景、小山田五郎兵衛昌晟の4将。
武田軍のお墓も鳥居強右衛門の横にありました。
新東名高速道路の新城インターから車約5分程の有海という地区にあります。公共交通機関であれば、JR飯田線の鳥居駅から徒歩5分くらいです。歴史好きな方は立ち寄ってみてください。
武田ファンは行くべきです!
名前 |
和気善兵衛宗勝之墓・伝高坂又八郎助宣之墓・横田十郎兵衛康景之碑・伝小山田五郎兵衛昌晟之墓 |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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訪問日 2024/6/24天正3年(1575年)の長篠設楽原の戦いで戦死した武田軍の武将達の墓です。もともとは違う場所に葬られていたのですが、新東名高速道路の建設に伴い此処、新昌寺に移設されたということです。墓碑は、鳥居強右衛門の墓所の隣にあり、向かって右から「和気善兵衛宗勝」「高坂又八郎助宜」「横田十郎兵衛康景」「小山田五郎兵衛昌晟」となります。「和気善兵衛宗勝」は、1575年の長篠•設楽原の戦いの際、鳶ヶ巣山•久間山砦の守備をしていたが、21日夜明け「酒井忠次」率いる4.000騎と鉄砲隊500に背後を突かれ、有海まで逃れたが討死した。「高坂又八郎助宜」の墓は竹広の胴切山にも、山県昌影らの墓と並び存在する。「横田十郎兵衛康影」の墓も、天王山の内藤昌豊の墓所の近くにある。遺児となり、後に江戸幕府の旗本となった「横田尹松(よこた•ただまつ)」が父の為に有海に塚を築いたと伝わり、この墓碑が移設されたか?「小山田五郎兵衛昌晟」は、武田本隊が設楽原に進軍するなか、長篠城の監視隊として残留していたが鳶ヶ巣山砦が、酒井忠次別動隊によって落とされると、長篠城包囲を解き本隊に合流する途中、追撃兵に討たれた。