夏の水連と猫ちゃん、御朱印も!
松秀寺の特徴
遠州三十三観音霊場の十六番札所としての荘厳さがあります。
水連の池周辺には見学者が多く訪れ、夏の風情が楽しめます。
たくさんの猫ちゃんがいるため、癒しの場としても人気です。
ハスの花の名所ということで訪ねて来ましたが、手入れされていなくてハスはありませんでした。
遠州江四十九薬師霊場の参拝でお伺いしました。曹洞宗のお寺で龍富山松秀寺といい、薬師霊場第四十三番札所になります。松秀寺の御本尊は地蔵菩薩で行基菩薩の御作と伝わります。山門に掲げられている扁額は古渓宗陳(こけいそうちん)禅師の揮毫によるものです。文亀元年(1501年)大易正甫大和尚による創建で、山内にある弁天池(龍神池)の畔に老松のあるのを愛でられて松秀寺と名付けたと云われている。慶長二年(1597年)徳川幕府初代将軍の徳川家康公より朱印十二石を拝領していた曹洞宗の古刹です。霊場御本尊の東照薬師如来像は長溝院(札所四十二番)より松秀寺に向かう途中の東照堂に祀られていた像です。この東照堂は鳥羽法皇の御願所として建立された東照山平福寺が明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり松秀寺境内に奉祀されたお堂ですが明治末期に旧平福寺跡地に再び移され村の方々によって大切に守られてきました。東照薬師如来像は現在松秀寺本堂左側に祀られています。
遠州三十三観音霊場 十六番札所 曹洞宗 聖観音菩薩。
蓮は全滅廃れてる(*´Д`)
遠州三十三観音霊場十六番礼所。
「龍冨山 松秀寺」は戦国時代の文亀元年(1501年)、大易正甫大和尚により創建された曹洞宗寺院です。その昔海岸に漂着したとされるご本尊の行基作地蔵菩薩の他、文珠菩薩、聖観世音菩薩、東照薬師如来も合祀されています。秘仏である「東照薬師如来(注)」は12年に一度の寅年にご開帳されるそうです。遠州三十三観音霊場の16番札所、遠江四十九薬師霊場の43番札所ともなっています。山門には京都大徳寺の古渓宗陳禅師直筆により「龍冨山」と揮毫された、見事な扁額が掛けられています。山門の隣にある「朝観音」は、早朝にお参りすると足腰が丈夫になるとか痛みが和らぐとか言われて信仰を集めています。その西に広がる弁天池は夏になると睡蓮で美しく彩られます。松秀寺創建当時に龍神池(弁天池)を覆っていた、龍の形をした松の大木が秀麗であったことが、山号と寺号の由来となっているそうです。可睡斎の重厚な入母屋造りの法堂(本堂)は、もともと松秀寺にありましたが、大きすぎて持て余したため、明治28年に可睡斎に売却されたものです。その後、松秀寺が再建した本堂は太平洋戦争中の1944年に発生した東南海大地震で倒壊してしまったため、戦後になって現在の本堂が再建されました。東照薬師如来は徳川家康も信仰していました。俗説かも知れませんが、彼が眼病平癒を祈願して叶えられたとか、生母於大の方が鳳来寺の薬師如来に祈願して誕生した自分を薬師如来の生まれ変わりと思っていたとか、単に「東照」の名称が気に入っていたとか・・・諸説ありますが、そのような理由により家康は「東照大権現」として全国の東照宮に祀られているのかも知れません。日光や久能山をはじめ、全国に数ある東照宮の「東照」が本当に松秀寺の東照薬師如来に由来しているとしたら、長年「東照宮」という名称の由来が知りたかった私は嬉しく思います。「厭離穢土欣求浄土」の旗印のとおり、家康は戦国という“穢土”を“厭離”し“浄土”を“欣求”するため、東照薬師如来の加護に頼ったのかも知れませんが、その願いは戦国の乱世を平定して、260年以上に渡る太平の「江戸時代」を実現するという形で叶えられたと思います。家康が東照薬師如来に祈願した際に奉じた願書(写真参照)には「・・・その威を我に譲り賜われ」と記されており、太平の世を実現したいとの家康公の願いが伝わってくる思いがします。ちなみに素人の解釈で恐縮ですが、添付写真の願書は「眼病平癒等、三つの祈願が成就したら、堂を建立致します」と読めます。(注)「東照薬師如来像」は、もともと800mほど北にあった「東照山 平福寺」に祀られていたものですが、明治時代の廃仏毀釈で平福寺が廃寺となった後は松秀寺に移されました。平福寺跡には今でも「東照堂」が残されていますので、併せて訪れてみてください。
本堂への入り口がわかりにくい。
我が家の菩提寺です。
宗教上のことはともかく水連が池に多くあるので夏には見学者が多く来ます、
| 名前 |
松秀寺 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0538-23-3079 |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
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丁寧な御朱印をいた。