慈光山普門禅寺の歴史に触れよう。
説明書よりーーー慈光山普門禅寺 由緒門寺はその昔、炎上した高山寺の末孤寺として存在していた事が、同寺の寺誌に記載されている。瀬戸谷字荻間にあり慈光山と号し、臨済宗にて静岡市大岩臨済寺なり往古天文年中は真言宗にて普門庵と稱せり、寛文三年七月中興嶺翁和尚憧地を当所に択び普門庵を転移して更に普門寺と号し臨済寺開山大体国師を勤請して開山となす、徳川家より御朱印高二石の寄附あり明治三年一般に奉選せり。当寺開基遍照光寺殿玄廣恵探大徳大居士は今川良真の法名にして、其墓は現地を距ること凡四丁計り、東北字亀ヶ谷沢にあり。按ずるに今川良真は氏親の二男にして義元の庶兄なり、母は福島安房守の女にして氏輝の弟義元と母を異にし、氏輝義元の母は大納言宜胤の女なり幼にして仏門に志し僧となり車栄と稱す、又花倉御曹司とも云ふ、天文五年氏輝の卒するや遺言して跡を義元に譲る。時に義元僧となりて富士郡普徳寺にあり梅岳承芳と号す良真深く之を憤り密かに武士を集めて不羈を図る、義元謀して之を知り花倉を攻む、良真數々の戦機を誤り支ふる事を得ず、脱して普門庵に入り十八歳を一期として自刃す。時に天文五年(一五三六)六月十日なり。同年八月二十五日天沢寺殿より弐質四百文の御判形あり、永禄三年今川十代氏真(義元の長子にして上総助と云ふ)御判改めに巡暦し御判改書せしもの同寺宝物として今日に存す。その氏真は迂愚であった。父義元程の気概なく忽ち勢運は下向を辿り、永禄十一年に甲斐の武田信玄の侵略を受けて、駿河は押領されて彼は追放された。然しその武田氏も天正十年(一五八三)には滅亡して時代は、徳川氏が三、遠、駿の覇者となった。菩提宗家の影響力を失った普門庵が、急速に淋れて行くのは当然であろう。戦国争乱を終えて軈て泰平の世が訪れ、時代の変遷につれて様々の変化も生じただろう。普門庵が凋落するのはこの頃と思われる。庵舎は既に老朽化し、法印の廟処も荒れるに委せて放置され中興の嶺翁和尚の出現は恰もこんな時期だろう、和尚は庵舎の老朽を儚み、廟所の荒廃にも痛く心を打たれて、発起せずには居られなかった。開基より凡そ百二十七年後の事であった。開基より平成二十三年で四百七十五年である。寺の再興と石塔の再建は嶺翁和尚の発願と公徳心によるものだと思う。以来、寺はこの地(同所萩間)に現存している。尚、普門寺は徳川の時代になってからも、今川家の菩提の由緒によって、朱印の存続が認められていた。
名前 |
普門寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
054-639-0760 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
4.6 |
周辺のオススメ

花倉の乱で敗れた今川良真(玄広恵探)が自害したお寺。