姫路城の美景、イの渡櫓を見逃すな!
イの渡櫓の特徴
姫路城天守閣への登坂通路から眺められる位置にあります。
常時見学できるイの渡櫓は観光スポットとしておすすめです。
小天守をつなぐ渡櫓の美しい景観が楽しめます。
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姫路城天守閣への登坂通路から見えるのがイの渡櫓。昔は行けたみたいですが、修繕後は遠くから見るだけの建物です。
常時見学できると嬉しいですね。
小天守をつなぐ渡櫓。武器庫も兼ねている。
名前 |
イの渡櫓 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
079-285-1146 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.8 |
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姫路城特別公開。イの渡櫓西小天守、東小天守、乾小天守から大天守閣をつなぐ渡櫓。・イの渡櫓の凄い所…大火で、もし大天守閣に火の手が迫った時に、大天守閣とイの渡櫓をつなぐ扉は土戸と鉄板張りの二重扉になっていて延焼を防ぐ仕掛けが施されています。・見逃さないで…特別公開の小天守、渡櫓、廻り櫓に共通することですが、必ず窓からの眺望を見てほしいです。というのも、ここは大天守閣と小天守や渡櫓の中にある中庭や、台所櫓が見れる箇所となります。ここでは乾小天守、台所櫓、ロの渡櫓、中庭が見れます。※姫路城、姫路藩史をかなり詳しく。有名な人物と合わせて紹介します。・戦国時代〜安土桃山時代姫路の地は、元々は播磨国(現在の兵庫県)の守護大名赤松氏の地盤でした。しかし赤松氏の勢力が衰え、赤松氏の支流にあたる小寺氏が赤松氏に替わり姫路を勢力下にいれます。小寺氏は重臣の黒田氏に黒田氏の居城として姫路を与えました。戦国時代の覇者たる織田信長公の勢力が中国地方へ進出すると、黒田官兵衛孝高は自身の主である羽柴秀吉公(後の豊臣秀吉公)に居城である姫路城の本丸を譲り、黒田官兵衛孝高は二の丸に移り住みます。後に揖東郡(いっとうぐん)、福井庄(現在の網干…あぼし地区)に1万石を与えられ姫路城の近くに国府山城(こうやまじょう)を築きます。そして姫路城は織田信長公の中国地方制覇の本拠地になります。その後、本能寺の変で信長公が明智光秀の謀反に遭い亡くなり、秀吉公が信長公の後継者となり居城を大坂城に移った後も姫路は黒田氏に領地は返還されず、秀吉公の正室のねねこと、北政所(きたのまんどころ)の実兄木下家定が25000石をもって姫路城主になります。・木下家定…豊臣秀吉公の正室ねね。こと北政所の実兄。羽柴、豊臣姓を下賜して、菊桐の紋を授かる。官位は従3位中納言。子供は男子のみ8人。武将としての活躍履歴なし。関ヶ原の戦いでは東軍、西軍の両方につかない中立。そのため徳川家康公より所領を安堵される。ただ要衝の姫路は池田輝政公に与えるため備中国(現在の岡山県)足守藩に転封となる。本人は関ヶ原後に出家して京都に居続ける。二位法印となる。そのため足守藩(25000石)は嫡男勝俊に、三男延俊は豊後国(現在の大分県)日出藩25000石、五男小早川秀秋は岡山藩主になるも後に断絶となる。※東小天守では、池田期と池田輝政公を紹介します。※姫路城では、姫路の歴史を凝縮して紹介しています。