山間にひっそり佇む、長作観音堂。
長作観音堂の特徴
安産祈願の観音様が祀られている由緒ある場所です。
社殿は国指定重要文化財で、歴史的な魅力があります。
朝方の訪問がおすすめで、静かな山間にひっそりと佇んでいます。
2024.9長作観音堂(ながさくかんのんどう)明治7年に廃寺となった長谷寺(鎌倉建長寺の末寺)の一堂で、本尊は秘仏のため御開帳時以外は拝見不可です。【本尊】如意輪観音菩薩国指定重要文化財(建造物)鎌倉時代の建造物と推察され、如意輪観音像は本尊である聖徳太子作の像として、安産と養蚕祈願にご利益があると信じられ、村人はもちろん近隣の人々の信仰を集めています。孝安天皇の皇女は、夫が朝廷の命により武蔵国の国司として派遣されたので、あとを追って夫のもとへと従者とともに旅を続け、小菅村にさしかかった。江戸時代に、甲州街道が開発されるまでの甲州街道は、大菩薩峠を越えて小菅村を通り佐野峠を経て西原村から武蔵国へ出るという道であった。従者を伴っているとはいえ、皇女は身重の体であり、介抱されながらの道中である。交通の難所とされた大菩薩峠を越えたことが体にさわったのであろうか、武蔵国まであとわずかというのに、にわかに産気づき一歩も進めぬ状態となってしまった。急なことで、民家へ運び込むゆとりもなく、葭草の茂る中に身を臥せ、葭草をにわか作りの祷としたが、大変な苦しみようで、お産のために呼び寄せられた村人も従者も、どうにも手の下しょうがなかった。ちょうど痛みがやわらぎ、安静になったとき、近くの薮から八羽のキジが一斉に飛び立ったので、皇女は心臓も破れるばかりに驚かれ、再び苦しみが始まった。皇女は苦しみながら「私はキジが大嫌いです。みなさん、キジの肉や卵を食べないで下さい。そうしていただければ、お産の苦しみをわが身一つに負って、あなた方の安産を守りましょう」とあえぎあえぎ言い終わるとともに薨(こう)じられた。従者も村人も、泣く泣く皇女のなきがらを長作の神楽入(地名)へ葬り供養したが、翌年から皇女のふせられた地に片葉の葭が生えるようになった。この不思議さに驚くとともに、村人は「都の尊いお方のお言葉だ。きっとお約束を果たしてくださるにちがいない」と、死際に残した皇女の言葉を固く信じ、決してキジ肉キジ卵を食べないこととした。後に皇女の霊を慰めるために、聖徳太子が刻まれたという如意輪観音が武蔵国の国司から神楽入に届けられお堂が建てられたが、長作一帯の産婦は安産に預かろうと、知意輪観音に祈りを捧げ皇女の臥されたあたりから片葉の葭を切ってきて、お産の床にふせば、キジ肉を食せぬ効と相合わせて難産知らずで、霊験まことにあらたかであった。後年、神楽入から現在地の長作に移された如意輪観音は、こうして安産守護観音として評判を高め、多くの信仰者を集め、安産を守り続けており、またキジ肉キジ卵を食べないという習慣は今もって守られている。
安産祈願の観音様です。ご利益があります。
❷【参考 観音堂 重要文化財観音堂修理工事報告書 1963年】観音堂嘉吉元年(1441年)の創立の“長谷寺”が明治4年の廃寺まで管理していた。建立年代はおそらく鎌倉期であって、中期以前にはさかのぼらないものとみられる。また、室町に下がることはないものと思われる。[本尊] 如意輪_観音菩薩安産祈願の巧験により知られていた。本尊は聖徳太子手作りといわれる。「郡誌」に「聖徳太子其の原 由を以て如意輪_観音菩薩の像を刻み字_神楽入に安置す、堂宇は大同2年(807年)の建立にて中頃にいたり現地に移せりと其の年代不詳」とある。初めに観音菩薩を安置した地を今では“古観音”と称し、この古観音付近には雉(きじ)はせいそくせず、この付近では雉を見たものはいない。これは観音様が雉をきらっているからだろうといわれている。余談であるが、すぐ下に御鷹神社がある。御鷹神社には「里人相つたえる。古へ(遠い過去に)、いつのころにか老鳥のキジが人に化けてこの辺の者をたぶらかすことがあった。その時領主より小鷹を賜り、小鷹にキジを獲らせたら、その後往来のうれいがなくなった。因ってコレを祭り神号となし、長作の鎮守となすという。」という伝えがある。このあたりの土地では雉は言い伝えにもなるほどに関係が深いようだ。[発見されたもの]①木札 文明7年(1475年)正月16日②柱取付面墨書 「谷村御手代 太田 市三郎 長作 四郎 元文2年(1737年)□□4月18日 西原村内□□村弥七郎 小菅村三」③格子戸腰板_内側墨書 「天保6年(1835年) 8月吉日 大工飯尾 村蔵 云々・・省略 」④寛文9年(1669年)小菅村水帖⑤宝永3年(1706年)文書うつし❶【参考 観音堂 山梨県市郡村誌 1985年】観音堂[鎮座地] 小菅村巳の方 字長作組にあり[境内地面積] 東西12間 南北5間 300坪。
「観音堂由来」によれば、六代孝安天皇(じんむ、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん のあの孝安天皇です、こんなところに孝安天皇ですね)の皇女が身重の身体でこの地を通りかかった折り、難産の為お亡くなりになった。(設定が凄すぎるような感じ)。のちにこれをお聞きになった聖徳太子が観世音菩薩像を刻みこの山中にお祀りなったのが由来だそうです。お堂は大同二年(807年)建立と記録されているそうですが、なんどか焼失しているようです。ちなみに日本最古の木造建築「法隆寺」は607年。山葵田(わさびだ)もあるよ、というので見に行きましたが、現在では栽培はされていないようです。
小菅小学校長作分校跡地近代的な渡り廊下と観音堂のミスマッチがいい感じ。復元前と復元後が異なりすぎて笑った。
聖徳太子の時代観音様。
午前中、特に朝方訪問するのがよろしいかと。朝日を浴びてより神々しく感じます。5台ほどの駐車場ありますので、県道の分岐点から車で登っても大丈夫です。
後世の改修がめちゃくちゃです。建物として重要文化財指定は取り消した方が良いかと。
上野原側から小菅に入ると、直ぐの場所にあります。奥多摩側からですと、少し遠いかな?
| 名前 |
長作観音堂 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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