浦添グスクで歴史を感じる。
浦添城前の碑の特徴
美しい歴史的意義の強い場所で、訪れる価値があります。
台風が多い沖縄でも、風化を防ぐ工夫がなされています。
浦添城の存在を静かに伝える、ひっそりとした佇まいです。
歴史的意義の強い美しい場所。(原文)Beautiful place with strong historical significance.
台風が多い沖縄でも石に刻むことでなるべく風化させず後世に伝えようとする。
浦添城の存在の記憶。
みんなの協力の賜物ということです。日のあたりの良い場所でよかった。(2019_12_17)
ひっそりと佇んでいる感じです。
名前 |
浦添城前の碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
098-876-1234 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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浦添グスクとは浦添グスクは13世紀末に造られたグスクで、中山(沖縄本島中部)を勢力下におく支配者の拠点と考えられています。14世紀後半から15世紀前半ごろには大規模なグスクになりました。政権拠点が首里城に移った後の16世紀には、第二尚氏第三代の尚真王の長男である尚維衡が居住し、それ以降は彼の子孫が屋敷を構えていたようです。しかし、1609年の薩摩侵入の時に焼け落ちてしまいました。1945年の沖縄戦ではグスクのある丘陵は前田高地と呼ばれ、日本軍の陣地となったことから激戦地となり、残っていた石積み城壁などは失われました。浦添城跡復元整備事業について浦添市教育委員会では浦添城跡の復元整備事業を四期に分けて実施しています。第Ⅰ期整備地区の王陵・浦添ようどれの復元が完了し、現在は第Ⅱ期として浦添グスクの整備を進めています。第Ⅱ期整備地区では、これまでに浦添グスクの西端の城壁や、グスク入り口の石畳道整備、グスクの東端にそびえ立つ巨岩”ワカリジー”の保全対策工事を行いました。現在は、先に復元した西端の城壁につながる南側城壁の復元に向けて取り組んでいます。復元整備は、発掘調査によって確認した遺構などを根拠として整備設計を充分検討したうえで進めていきます。前田高地壕口分布の実態沖縄での地上戦の特徴を示す言葉の一つに「反斜面戦闘」がある。これは敵が来攻してく る高地の反対側の斜面に陣地を構築し、敵からの砲撃による被害を減少させる。敵が高地頂 上を占領した後に、下方から上にいる敵に交戦を挑む戦法である。高低差があると、上側に いる方が有利になるのではあるが、それでも砲撃による被害を減少させ、歩兵同士の接近戦 に持ち込む目的の、いわば苦肉の戦法といってよい。前田高地陣地壕群が高地南側斜面に構築されていることは、米軍が北側から攻めてくることを想定していたことになる。そして高 地頂上近くに配置される高地中腹の陣地壕はまさしく戦闘のために構築された壕であって、激戦中に使用された壕となる。この時、高地麓に陣地を設置していては、高地頂上の敵に接近するまでに被害が出てしまう。麓に構築された壕は物資集積壕であり、麓にあるから各部隊への物資の搬出がしやすいことになる。前田高地麓にある壕は、志村隊が退却に失敗し、前田高地に閉じ込められた後、回想録に頻出することになる。高地麓の壕には南北貫通壕は存在せず、貫通壕は、中腹と頂上にのみ存在する。[ある…グーグル検索で前田高地の戦いを検索したら、この文章で米軍が一つの穴にガス弾を放り込んだら驚いた事に周辺の至る所の穴から煙が出て、地下トンネルがグスク全体に張り巡らせて、南側の麓の豪まで繋がって居たと書かれて居るが?事実と異なる文書も少なかれある?実際 生存者の回想録にはその様な記述は全く出てこない ] 或いは為朝岩の近くにある洞窟遺構で、今は口の上まで埋められた痕跡があります!前田高地を守備した日本軍の概要、前田高地を含む浦添市一帯は、日本軍第62師団るの作戦区域にあたり、歩兵第63旅団と歩兵第64旅団の2個 旅団によって構成されて居た。前田高地の守備を管轄するのは第63旅団長「中島徳太郎少将 」であり、 第63旅団の指揮下にあった独立歩兵第12大隊(隊長賀谷與吉中佐(46歳、摩文仁の戦闘て戦死なされた)以下賀谷隊)が、前 線から突出する形で中頭方面に配備され、米軍の進撃を遅延させつつ退却戦を行い、最終的 に前田高地に入って守備することになる。4月26日、前田高地が危機に瀕すると、第32軍 司令部は第24師団を南部から北上させ、中部戦線に参加させる。前田高地には第24師団 指揮下の歩兵第32連隊の第2大隊(隊長志村常雄大尉、以下志村隊(24歳、沖縄の終戦を知らず、敗残兵として中部の北上原に部下と共に潜んで居た。後に米軍に投降して生存した結果豊富な回想録を残して居る)が援軍として4月29 日に到着、以降、賀谷隊と志村隊が共同して作戦を行うことになるのである。前田高地グスクの頂上には2か所の隣地豪群が構築されていた。一か所は西側周辺に点在する自然洞窟と今は破壊されて跡形も無いがトーチカ跡がエントランスの間に有る、更に進むと右手に伊波普猷の墓がある。墓は戦後に建立したと有る。その場所にも防衛隣地が有ったかもしれない!更に少し進んだら、左手に崖から宜野湾方面が望める、近くには豪遺構が有る。この豪は第62師団が構築して、引継ぎして第63師団が周辺を守備していて、この南北貫通豪も含まれる。坑道の中間は十字路で西向きは4mで行き止りで東向きは落盤のため埋まって居て全体像は不明である。(日本兵はここに潜んで攻撃体制を取っていたかも!)更に南外側でクチグァーガマやシーマヌ礼拝で中にも豪が構築されて居る。周囲にも複数のガマが点在して居る。日本軍や住民が避難用として活用して潜んで居た。続いて2か所に成る、豪群は公園から為朝岩え向かう南側の小道の間に中腹の隣地豪群が有る。志村隊 本部豪と大隊砲小隊豪、更に約55m進むと2つの入口を持つ賀谷隊 本部豪で、もと第63師団から引っぎした前田の防衛する司令部に成る。この周辺を守備して共同作戦したのは賀谷隊長と志村隊長以下部隊で有る。前田高地には戦闘用の豪は少なく、大規模な防御陣地や地下に迷路の様な坑道は張り巡らせていなく、その様な物はほとんど構築されていない。(本来、第62師団は前田高地が大規模な戦争を想定して居なかったのであろう。嘉数高地や棚原高地隣地、周辺に点在する防衛軍の全てを第62師団が管轄する司令部として前田高地に置かれていた)やむなく日本兵は前田の周囲に点在して居る小さなガマに分散体制で潜んで戦闘するしかなかった。この2か所の壕群は戦闘壕であり、まさしくありったけの地獄を一つにまとめた。 戦場 の中核となる壕群である。[この激戦を指揮したのは第24師団第32連隊第2大隊・志村常雄大尉で。戦後執筆された記事に、実際の戦闘指揮について触れた個所がありますのでご紹介します。首里の司令部壕が間近にありながら、前田高地には防御陣地がほとんど構築されていない、なぜなのか。と疑問を呈し、このような中での戦いを余儀なくされた志村大隊は短期間に将校が激減し、ガマ、壕、岩陰など所在の地形を最大限に活用して分散体制にあり、大隊・中隊・小隊の統一戦闘すら難しかった。状況判断,戦機の看破、リーダーシップがその成否を大きく左右したと記し、優れた下士官・古年兵に恵まれていたことに言及しています。]最終的、残ったのは機関銃中隊、大隊砲小隊、配属の速射砲隊、独立機関銃中隊の合計200名程度となった。(記載が志村大尉の原文です)終戦までに志村隊長以下部隊の生存者は29名であった。[ 中腹で 他のクチコミで述べた立坑が有る場所で、豪J-口は特殊性豪で、現在 この豪の入口は岩や石ころで塞がれています。戦時 頂上を占拠した米軍は各豪口を破壊して行った跡である。現在、 口は金網で囲っていて豪内は覗く事しか出来無い。(浦添市教育員会の許可を取った上でしか各豪群に立ち入る事は出来ません)この位置から東え約16m進むとI−口が賀谷隊 本部豪で出入口は2か所の一つで、他の出入口は東側で最も為朝岩に近い方の入口がH-口に成る。回想録で中腹には5ヶ所で、内1か所は頂上豪にL-口成る。頂上足下に小さな立坑が有って、監視用とか交通豪と云われている。それに中腹の豪群は志村隊本部豪と大隊砲少隊豪それに賀谷隊本部豪の三つで、回想録にはそれ以外は記載は無いが、最近 私が知った 新たに2か所の小さな洞窟で、1ケ所はI-口から東向け約7mに進んだ位置から草藪の斜面上の 奥に金網で囲った小さな洞窟がある。更にもう一つは賀谷隊本部豪H-口から右手に階段が有る。その階段を上の階に立つと大きな岩がある。その岩で 裏側に入って草木の奥に金網で囲った小さな洞窟がある。この2か所は最近設置された様で 金網は新しく見える。推測で有るがこの2つの場所は人目に着きにくい場所で、(戦時この小道と今の地形は存在していない事だけ述べとく!)草木の奥に隠れていて、気づきにくい場所である。口はやや東向きである事から、東側攻めて来る敵兵に対し日本兵は防衛の為 潜んで攻撃していたのでは無いか![ 今後も他の洞窟が発見されるかもしれない!][沖縄 全島 で琉球石灰岩大地でサンゴ層の中には土丹と呼ばれた、 比較的軟質の泥岩や粘土が詰まっていて、石灰岩の外側はセメントの様に硬いが、洞窟内は容易にツルハシでも掘削しやすいので日本軍は各地に容易に豪群を構築出来た。]