戦国の面影、三春城で歴史散策。
三春城跡の特徴
三春城跡は戦国時代に田村氏の居城として築かれた歴史的な場所です。
標高407メートルの本丸跡からの景色は絶景で心が洗われるようです。
続日本100名城に選出された三春城は地元で舞鶴城として親しまれています。
田村氏が16世紀初頭に三春城を築いて、小浜城から本拠を移したといわれています。奥州仕置で田村氏が改易されて以降は、伊達、蒲生、加藤、松下氏と続き、1644年に秋田氏が5万5千石で入封以降、秋田氏が幕末まで藩主として続きました。戦国期には山頂の本丸に居館がありましたが、秋田氏の頃には御殿も山麓に移されてそうです。8月初旬に訪問、事前に口コミをみていきましたが、本丸近くの駐車場は想定以上に急斜面で道が狭いので注意が必要です。搦手門訪問から入り、土塁や本丸下の蒲生期の石垣の遺構、天主台など見学し、本丸の表門跡を抜け、三の門を通過すると本丸周囲を半周できます。続100名城のスタンプは本丸跡にパンフレットと一緒に設置してあります。
三春町の歴史のシンボルで、桜の名所です。山城で、本丸にたどり着くまで軽いハイキングになります。特に遺構などは無く、碑が立っていて場所が分かる程度です。ベンチが多く、トイレもあります。
本丸近くまで車で登れる。駐車場もあるが道が狭いので要注意。遠くまで見渡せる気持ちのいい城だった。全体が山城だが、いまは、全体が公園のように綺麗に整備されております。地元の方の愛情が感じられる。下からは歩いても10分ぐらいでいけます。車ですと、いろいろな帰り道がありますが、道が狭いです。2023年11月26日登城。
2023年8月18日に散策しました。永正元年1504年に田村義顕が築城しました。別名「舞鶴城」とも呼ばれています。田村義顕の孫にあたる3代城主田村清顕は、一人娘である愛姫を伊達政宗のもとへ嫁がせました。豊臣秀吉の奥州仕置によって田村氏は改易されます。以後、田村氏は、伊達氏の家臣となりました。正保2年1645年、秋田(安藤)俊季(としすえ)が、入城して明治維新を迎えることになります。秋田氏時代には、藩主の御殿は、現在の三春小学校の場所に移りました。本丸には、石垣の上に秋田氏の供養塔が建っています。
田村さんのお城。公園になっていてあまり険しいところはありませんでした。気持ちよく回れるところです。
地元では舞鶴城として親しまれている三春城。日本続100名城になっている。駐車場に行くまでの道のりが中々に険しく焦りました。城跡で、緑がきれいな印象です。
続100名城に選ばれている城で昔の絵図などを見ると石垣で出来た立派な城だったらしいが今はその面影はなく僅かな石垣が残っているだけです。それほど広大な城でもないので戊辰戦争で無血開城したのも少し頷けます。
三春町のほぼ中心、大志多山の山頂に本丸跡が残されている。城跡は公園となっており、春には桜が咲き誇る。北側の搦手門から入城可能で、100段ほどの急な石段を上った先に、本丸跡を見ることが出来る。本丸跡からは遠く安達太良山や磐梯山などを望むことが出来る。1500年頃に田村氏によって築かれた城で、伊達政宗の妻にあたる愛姫が生まれた所でもある。その後秋田氏11代としての居城を経て、明治維新で廃城となった。南側の保健センター右側の道から入城出来るが、他のコメントにもある様にかなりの急坂なので、運転注意。その先、本丸跡下の駐車場まで続く道も20度くらいの急坂なので、手前に路駐もあり。
続日本100名城の110番三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。城跡近くには、町役場など公共機関が集まっており、現在も三春町の中枢部である地域である。wikiより現在は山の公園といった感じで城を感じさせる遺構はほぼない。スタンプは二の丸跡付近に置いてあるので24h可能です。
名前 |
三春城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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車で本丸近くの駐車場まで行って周りました。看板の通りに本丸方向へ登ったら本丸裏門跡に辿り着き、パンフレットをゲット。(スタンプも置いてます。)QRコードを読み込むとARが見れて一風変わった見せ方をする城跡です。ARを無しにしても見応えあり、登り応えありです。