江戸時代の相馬氏を偲ぶ城跡散策。
相馬中村城跡の特徴
相馬中村城跡は、江戸時代からの相馬氏の居城跡で歴史を感じられます。
土塁や石垣がほぼそのまま残り、歴史愛好者にとって魅力満載のスポットです。
四季折々の風景が楽しめ、散歩コースとしても訪れる人々に人気があります。
2023年8月19日に訪れました。別名、馬陵城とも呼ばれる城ですが、ここ天神山には、延暦年間(800年頃)頃に館が既に築かれていたと言います。現在の様な石垣を有する城になったのは、慶長16年1611年に相馬利胤が築城し、小高城から本拠地を移した時からです。相馬氏は、元々、下総国(千葉県)の豪族でした。奥州合戦の戦功により、源頼朝から行方郡周辺の地を賜りました。元享3年1321年に相馬孫五郎重胤が、守谷城から行方郡太田村(南相馬市原町区)の別所の館(現在の太田神社 相馬三妙見の一社)へ移住したと伝わっています。その後、小高城へ本拠地を移しました。慶長2年1597年〜慶長7年1602年までの間、牛越城へ本拠地を移した時期があります。関ヶ原合戦で中立の立場をとったことを徳川家康からとがめられ、改易の通達を受けました。相馬利胤に代替わりすることで、改易は免れましたが、牛越城は、不吉とされ、小高城へ本拠地を戻すことになります。中村城の築城は、伊達政宗との攻防を有利に進めるためだったと考えられます。寛文10年1670年に天守閣へ落雷があり、天守閣は焼失しました。天守閣は、再建されることはありませんでした。明治4年1871年に廃城になりました。
相馬中村城跡の見学は相馬神社に行くのと同じ道となるので少し登ることになります。天守や櫓など無いが、一部石垣が残り、堀もあります。
2023/05/05なぜか相馬神社が百名城を自称していて笑ってしまった。あくまで自称なので、中村城は日本百名城でも続百名城でもない。とはいえ遺構の状況や規模、相馬氏や相馬野馬追の知名度を考えると選ばれていてもおかしくないと思うぐらいには立派な縄張りだった。街中にあるものの、単純な方形ではない複雑な中世平山城。縄張りが独特なので歩いてて飽きが来ない。空堀内を歩いていたと思ったら住居、そうと思ったら神社等、そもそもの遺構とか関係なく歩いてて面白い。相馬駅からのアクセスも良い。私は他の目的地に向かう前、ホテルチェックアウト前の早朝に一時間ほど探索した。気軽にこのレベルの城を楽しめるのは悪くない。
相馬市の街中、市役所の西隣にあります。立派な内堀があります。本丸には藤棚があります。
‘22年正月に相馬市に行った際に初詣として立ち寄りました。1200年前から城として築城され、明治時代に廃城令により殆どが取り壊された後に、相馬神社と相馬中村神社が建てられて、馬陵公園として野球場などの施設も設けられ現在に至ります。内濠や一部の石垣等が残っており、往時の中村城の様子が伺えます。阿武隈山地から伸びる丘陵の上に築城されており、天然の急崖が擁壁として機能しており、石垣はごく僅かで、低コストで機能的に建てられた平山城です。内濠は北側の堀幅が広くなっており、蓮池や溜池になっています。北に隣接した伊達藩の脅威に備えたとか。
今回藤棚を見に訪れました。とても綺麗で素敵でした。3月の地震の影響で石碑などが倒れたままでしたが、見学は可能でした。
地震でかなりの被害がありました。昨年も地震で被災し、クラウドファンディングをして修理したのに、また被災。微力ですが協力したいと思っております。相馬野馬追の出陣式を開催する神社です。ご協力頂けると有り難いです🙇♀因みに、私は一市民です。神社関係者ではありません。相馬市に来て30年、花見は毎年行っています。
土塁、石垣後が残ります。平将門の流れを汲む相馬氏の息吹を今も感じることができます!
日本の百名城東側からの石段を上がると二宮尊徳と相馬の仕法についての説明板と銅像がありました。朱色の橋が秋晴れに照らされて映えております。天守跡には、藩祖を祀る相馬神社があります。
名前 |
相馬中村城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.soma.fukushima.jp/digital/nakamura_jouseki/4399.html |
評価 |
3.8 |
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相馬氏が江戸時代に石垣造りに改修して本拠としたとされる城。本丸周辺は石垣が見られる。北側の三の丸等は土造りとなっている。ここら辺は見学者も少なく薮も多いうえ本丸下は沼のようになっており注意がいる。城の周囲の外堀がよく残されており全てを見学すると一時間以上はかかる。