榎戸伊奈利神社で心を癒す旅。
伊奈利神社の特徴
榎戸伊奈利神社は倉稲魂命が御祭神です。
環境に恵まれた元荒川の近くに位置します。
境内には辨天神社や天神神社が存在します。
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名前 |
伊奈利神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.3 |
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榎戸伊奈利神社(えのきどいなりじんじゃ)御祭神 倉稲魂命境内社 辨天神社 天神神社由緒榎戸村 寶性寺 新義眞言宗 箕田村龍珠院門徒 稲荷山普門院と號す 本尊十一面觀音を安ず稲荷社 村内の鎮守とす辨財天社天満宮(「新編武蔵風土記稿」参照)町の北西部に位置する榎戸は、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めています。当神社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座し、昭和二十年代(1945~)に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていました。境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいますが、嘗ては、民家は全くなく、楢の林が当神社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所でした。この榎戸で最も力を持っていた家が、「榎戸の殿様」と称されていた横田家で、嘗ては、当神社の祭事の経費の半分は同家が負担していました。横田家は、十三代ほど続いた後、昭和二十年代半ばに絶えてしまいましたが、当神社の参道の脇には同家の墓所があり、町指定文化財になっています。ちなみに「風土記稿」榎戸村の項にも、同家は「旧家半十郎」として載り、「降奥国会津郡」から寛永十一年(1634)に当地に来て土着したと記されています。(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)「旧家半十郎、村民にて眼療を業とせり、氏を横田と云ふ。古は陸奥国会津郡の民なりしが、寛永十一年、当所に来りて土着せり。其の家系を閲するに、山内五郎左衛門尉俊綱が後胤にて、俊綱より六代横田兵部大輔俊治、はじめて横田を氏とす。其の子刑部大輔頼俊は又山内を称せり。此の人より六代越中守俊泰の次男を横田左馬助光弘と云ふ。これ半十郎が祖先なり。それより、左馬助長房、左馬助光房、丹波守隆房、安芸、兵庫、善九郎など連綿と記したれど、事跡、年代等すべて詳ならず。たゞ善九郎は天正十八年に流浪せし由見ゆれど、何れに仕へしかは載せず。それより後はすべて伝を失へり。又祖先の持ちしものとて槍一筋を蔵す」(「新編武蔵風土記稿足立郡榎戸村条」参照)当神社の由緒については、「風土記稿」に「稲荷社 村内の鎮守とす 弁財天社 天満宮」と載る程度で、創建についての詳しい事情は知られていません。しかし、以上の状況から考えると、社殿の建立や境内の整備についても、横田家が大きくかかわっていたと思われます。また、「風土記稿」には別当についての記載がないですが、立地から見て、当神社に隣接していた宝性寺が祭祀に関与していた可能性が高いと考えられます。(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)境内社「天神社と辨天社」文久二年(1862)九月、子ども達が、賢く、美しく健やかに成長することを願って祭った、天神社、弁天社も百二十余年の歳月を経て、瓦は破れ、雨漏りで野地板も朽ちました。昭和六十一年(1986)一月改築の意が盛りあがり、工事は進み、五月十九日竣工、遷宮鎮座の儀、二十五日奉祝の儀が盛大に行われ、天神社、弁天社の社祠改築は成りました。先代の二社によせた心を心として幸多い人生を創りあげよう。(境内碑「改築記念碑」参照)