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名前 |
南市田神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.0 |
南市田神社(みなみいちだじんじゃ)御祭神 久久能知神 金山彦神 埴山姫神 火産霊神 弥都波能売神 素盞嗚尊 菅原道真公 伊弉諾命 大物主命 宇迦之魂神 瀬織津姫神 大山祇命 天力男命 日本武尊 誉田別命 軻遇突智神 天照大御神 倉稲魂神 市杵島姫命 大日孁命由緒中曾根村 五社明神社 村の鎮守なり 金胎寺持(「新編武蔵風土記稿」参照)明治二十二年(1889)中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田・高本・上恩田・中恩田・下思田の十一ヵ村を合併し、市田村が誕生しました。村名は「和名抄(平安時代中期に作られた辞書)」に見える市田郡にちなむものです。当神社は、明治四十三年(1910)にこれら旧村の内の中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田に鎮座していた各社を遷座統合し、市田村の中心的な社として創建されました。社地については、中曾根の村社であった五社神社の境内地が選ばれました。これは、中曾根地区に市田村の役場が置かれ、行政的な中心地であったことによるものです。社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の小名があり、これに対して南にある市田の意を表しています。ちなみにこの「北市田」は、江戸初期の荒川開削以前は市田村と陸続きであったといわれています。遷座統合によって、氏子数は増したものの、境内地の広さは三百三十五坪と従来のままでした。このため、例祭などの執行に支障を来すようになり、ついに大正二年(1913)に境内の西側の田畑三百五十五坪を整地し、新たな境内として編入し、総面積は六百九十坪に広められました。更に同三年(1914)には社殿を中央に移し、名実ともに地域の中心的な社としての体裁を整えました。統合の中心となった五社神社については「風土記稿」に「村の鎮守なり、金胎寺持」と載っています。金胎寺は当神社東側にある真言宗の寺院で、名主茂右衛門の先祖によって開基されたと伝えられています。(「埼玉の神社」参照)境内の西北部には遷座統合以前の村社、五社神社(中曽根村)・氷川神社(屈戸村)・以奈利神社(屈戸村)・瀧祭神社(吉所敷村)・瀧祭神社(沼黒村)・八幡神社(津田新田村)・氷川八幡神社(手島村)・愛宕神社・八尾神社(小泉村)合祀碑が祀られています。当地域は荒川沿いの低地であるため、古くから水害に悩まされました。そのため、川を鎮め、耕地の安全を願って五穀豊穣と土地の安泰を祈りました。また、五社神社(中曽根地区旧社)の天王様に子ども相撲が奉納されています。子どもたちの健康を願って始められた行事です。(「境内案内板」参照)