鹿沼城の空堀と土塁を体感!
鹿沼城跡の特徴
鹿沼城は16世紀前半に壬生氏が整備した本拠地です。
大きな空堀や土塁が今なお残っており圧巻です。
御殿山公園内の本丸跡は現在野球場になっています。
鹿沼城は、16世紀前半壬生氏の領内支配の本拠地として整備されました。天正13年(1585)城主壬生芳雄(みぶよしお)が小田原北条氏に従属すると、鹿沼城は北条の北関東戦線において激しい抗争の舞台となりました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原城討伐によって壬生氏の滅亡して鹿沼城は、廃城しました。壬生氏の家紋と考えられる左三つ巴文で、令和2年と4年の庁舎設備に伴う発掘調査では、左三つ巴文が描かれた漆碗が多く出土してます。尚これは、御城印についている説明書参照しました。
土塁と空堀は中々史蹟看板は写真の物と井戸の石標だけでした。
市役者裏手の公園になっているが、土塁や空堀がある。空堀はかなりの藪。わざわざ見に行くほどのものでもないかな。
駐車場は南側二の丸跡、北側とあります。本丸は野球場となり大分改変されています。南西側に櫓台?の外側に深い空堀と土塁が有り、意外と見応えありました。北西側の曲輪はぐるりと土塁があり、北西側に堀切で区切られ曲輪が有りました。市街地近くですが周囲から切り立っていて段差が10m強は有りそうでした。散歩中の地元の方に、東側の市役所の場所に障子堀があったそうで、建てる前の調査写真を見せて頂きました。北の駐車場のほうは沼だったそうです。
現在は御殿山公園になっており本丸跡と二の丸跡には野球場があり改変が著しいが、西側には大きな空堀を見ることができます。最上段の忠霊塔のある場所は太夫殿跡とされます。鹿沼市役所の庁舎建て替えにあたって発掘調査の際には、障子堀が見つかっていましたが、新庁舎の下に埋もれています。鹿沼中央小学校の場所は、御殿跡になります。城址碑が2021年11月に建立されました。
ほぼ、球場となっているので城址とわかりにくいが、歴史を感じて散歩。
北側の駐車場に面した城塁はゆうに10m以上の高さがあり、非常に大きな城だったことを思わせます。本丸は野球場になっていますが、バックネット後方の城塁も高さがあり、神社がある曲輪の先は崖についてなっていて、平城としては十分な高低差がありそうです。周辺も堀だったかと思わせる地形もあり、周りを歩いてみるのも面白いかも知れません。
ほとんど野球場になっているが、外野に土塁が残っている。
野球場の周りに土塁がめぐっていて、また堀切なども見られます。
名前 |
鹿沼城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0289-72-1300 |
住所 |
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評価 |
3.0 |
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ここに来る途中の遊歩道でのハチに注意です。