不動丘からの絶景、歴史探訪!
高幡城跡の特徴
高幡不動尊の裏山に位置し、歴史を感じる場所です。
武蔵七党に名を馳せた西党の高幡十右衛門が城主でした。
豊臣秀吉の小田原征伐の際に高幡城で戦いが繰り広げられました。
高幡不動駅を降りてすぐにある高幡不動尊。こちらは五重塔などあり、非常に有名な場所ですが、実はここがお城だったらしいです。これまで高幡不動尊には何度か訪れていますが、城址には行っていませんでした。どうやら、すぐ裏というか隣の山が城址となっているようです。このお寺は紫陽花でも有名らしく、それを見に来るとわかったのかもしれません。脇道を上っていくと結構な急坂になります。そこをぐんぐん上っていきます。するとやっと平らなところに出て、前に階段が。こちらが高幡城の主郭となる場所のようです。階段を登ると開けた場所に出ます。ベンチくらいしかありませんが、非常に気持の良い場所でした。こちらからの景色は非常に良く、浅川やその向こうの多摩川などを見ることが出来ます。帰りは別の降り口から降りてみました。こちらはお地蔵さんがたくさんあります。どうやら四国八十八か所巡りが出来るようになっているようです。流石に全部の場所を見ることはありませんでしたが、降りるときに出会ったお地蔵さんだけでも個性豊かな表情が非常に楽しめました。それほど高い山ではありませんが、色々とギュッと詰まっていて非常に良かったです。
築城主、築城年は不明。主な城主は高幡氏との事。恐らくの話しですが…平安時代後期〜鎌倉時代に高幡というこの場所を領地とした土豪が高幡氏と名乗り始め、山城を築城したと思いますよ。この辺りの最初の築城パターンは殆どこんな感じです。そして、その後の時代に扇ヶ谷上杉氏か鎌倉公方がそのまま利用、又は取り合いをして…そして、その後の時代はお決まりの小田原北条氏系の支城または…出城という感じで豊臣秀吉の小田原攻めで攻め落とされ、その後に廃城みたいな感じではないでしょうかね…分かりませんが。まぁ…坂東の山城の王道パターンですかね。城に関する記録はほぼ無い様です。因みに高幡不動の裏山が城山です。山城の道すがらにはお地蔵様が八十八体立っており、四国ハ十八箇所のお遍路をしたのと同じご利益が得られるという仕組みになっています。29番目のお地蔵様の辺りから登った見晴らし台が二の丸、本丸という感じです。悪くは無いと思いますよ。お遍路さんも出来ますしね。
2022-11-12訪問高幡城跡の痕跡は入口階段下にある立て看板だけです階段を登ると幅が狭い平坦な土地が数十m続きます所々…樹木が開けており景色がとても良いですただ、ここに山城があったとは思えないほど狭い土地です。
高幡不動尊の裏山で標高125メートルの不動丘にあります。手軽に山城の雰囲気を味わえるところで堀切、曲輪が尾根上な連続で現れます。ここから七生丘陵ハイキングコースが平山城址公園まで続いていて緑の散策路を楽しめます。
高幡不動尊のすぐ裏山をふうふう登った所が城址になります。遺構としては浅い堀切が見られる程度でした。
高幡城は武蔵七党のひとつ西党の高幡十右衛門が城主で、ここ金剛寺は、山内上杉氏祖上杉憲顕公が、分倍河原合戦の時古河公方、足利成氏公と、戦い、負傷した、場所で、ここ、高幡城は、平高麗氏の城かと思われます。
立て看板では「高幡城址」となっています。八十八ヵ所を回っていると、てっぺんにありました。こんなところにあったんですね、城が。まあちょっと考えれば、ほどよい高さで周りが見渡せる、納得です。標高は120mくらい。下界は標高70mくらいなのでその差は50m程度。立川~国分寺方面が見渡せます。
高幡不動尊の裏手にある山の上にある。高幡不動尊からすごい急な坂を昇ることになる。
1590年の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際には北条氏の家臣、高幡十右衛門が居城して、秀吉軍と戦ったと伝わっています。城跡は新選組副長の土方歳三の菩提寺としても知られる高幡不動尊の裏山に位置していて、曲輪跡のほか、堀切や竪堀などの遺構を確認することができます。
名前 |
高幡城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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高幡不動尊の側にある城跡だが遺構はあまり見られない高幡不動尊の観光客が多数訪れるため人は多く本丸からの眺望は中々良い。