二本松で地域と共に歩む。
二本松の特徴
二本松は、根岸河岸へ向かう目印として親しまれている場所です。
松の根元には二基の庚申塔が祀られています。
地域の人々に昔から愛されている史跡です。
2本合わせると樹齢800年らしいです🎄
今ある2本の松の木は、どう見ても昔から有るものではなさそうですね。細っこいし・・・。きっと新しく植えたんでしょうね。
二本松は、昔から田無・片山・膝折・溝沼方面から根岸河岸へ向かう目印であり、また、松の根元に二基の庚申塔が祀られ、地域の人々に親しまれている。
名前 |
二本松 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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昨年(2019年)の11月末頃から、時々朝霞市内(一部)を歩いています。そこに居た頃には気が付かなかったことや疑問に思っていたことなどが浮かび上がってきました。そのひとつに「二本松」とその周辺がありました。二本松近辺だけでなく、辺り一面畑が広がっていた光景をはっきり覚えています。子供の頃のこと。広い土地の一角に4軒の家が建っているのに気付きました。その時は、こんなにも広い場所なのに、なぜ一軒一軒を離して建てないのだろう?と不可解に思ったものです。庭と呼べる土地すらなかったのです。子供が抱く素朴な疑問でした。簡単に数えられる程度の家しか建っていなかったはずです。徐々に変化の兆しが見え始めていた頃だったのかもしれません。上記のように思うようになる遥か前から、二本松があることは知っていました。庚申塔が立っていたかどうかまでは覚えていません。なぜ二本松なのか?ほとんど意味も分からないまま、やせ細っていった松の姿を記憶しています。いつ植え替えたのか、もしくは手入れをして元気にさせたのか分かりませんが、しばらく振りに見た二本松は、とても元気で周りも整備されていました。市指定史跡にもなっていました。以下の引用文は、朝霞市博物館の学芸員から教えていただいた資料を基にしています。「この辻は溝沼村と岡村の村境で、江戸時代には志木から新倉を通り、板橋にぬける川越街道の裏街道が通っていました。また膝折や溝沼の方から根岸河岸に行く道でもあり、このほか東円寺に行く道や広沢に行く道など、いくつもの道が交わる辻でした。この松は志木の方から新倉や白子(和光市)の方からも見えたので人々の道しるべになりました。」(埼玉新聞 昭和53年7月1日発行 より引用)とのことです。「志木や新倉からも見えた」とは、比喩なのか、それとも本当に見えたとしたら、文字通り辺り一面畑しかなかったとしても、イメージしづらいものがあります。更に、「新河岸舟運が開通してからは、河岸街道としてさかんに使われるようになったが、この辺り一帯は畑が多く、暗い道は道に迷う人が多かったため目じるしとして二本の松が植えられたと伝えられている」とも言われています。(二本松遺跡保存会 「富士見町内会三十年のあゆみ」昭和57年5月発行より引用)歴史を紐解いてみると、全てではありませんが、成程と納得できるものもあります。長い間私のどこかにあった疑問を解いていただいた思いがあります。庚申塔も道行く人々の守り神であったのでしょう。庚申塔には花が供えられていました。ささやかな祈りと感謝が込められているように思われました。