高句麗の歴史を感じる、古の跡地。
高麗寺跡の特徴
高麗寺跡は創建7世紀の古代寺院で、国内最古の一つです。
高句麗から渡来した狛氏に関わる寺院で歴史的意義があります。
美しい自然に囲まれた、印象的な寺院跡の基礎が残っています。
創建は7世紀初頭と古く仏教伝来以降に蘇我氏や蘇我氏系王族が中心となって畿内に創建した四六ヶ寺の一つで朝鮮半島北部を支配していた高句麗から渡来した狛(高麗)氏に関係する寺院と考えられています。当時は七堂伽藍が揃う寺院は飛鳥寺しか無かったそうで、一〜二堂程度で構成された寺だったようです。大化の改新後の白鳳期に寺院建設ラッシュが有り持統天皇の代には全国に545ヶ寺も建っていたとのことで、当地も7世紀中葉に本格的な伽藍を備えた寺院へと変わっていますが私寺(氏寺)なので法隆寺などとは比較にならないほど小さな寺院です。史跡整備が終わっていて金堂や塔跡は基壇なども復元されていました。講堂の南側に塔が東で金堂が西に並ぶ法起寺式伽藍配置です。講堂の発掘調査から三重基壇や金堂プラン(正方)である事が判明し、当初は「一塔二金堂」の中金堂に当たる建物で川原寺式伽藍から法起寺式へと変更したとの見解も示されています。一般的な法起寺式伽藍配置は南門・中門・講堂が南北一直線に並ぶのですが南門・中門・金堂と西側にシフトする特異な配置は創建時の伽藍が関係していると考えられています。中門は道路下だったり南門も埋め戻されて何処だか良く分かりませんでした。南門の築地塀跡は現在確認できる最古例ですが埋め戻されています。蘇我馬子が建立した飛鳥寺の創建瓦と同じ型を使った「単弁10弁蓮華文軒丸瓦」が有名ですが川原寺創建瓦と同笵の瓦などが見つかる所です。南山背地域初で鎌倉時代初頭まで続いていた当寺の出土瓦が地域一帯の寺院跡を知る上で重要な資料となっています。駐車場は有りませんが数台路肩へ停められます。徒歩の場合、最寄りの駅はJR上狛駅で近いのですが国道163号線から国道24号線京都方面への抜け道に史跡公園があり歩道も無い農道を歩くので注意が必要です。東へ徒歩10分程の『京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)』に出土品などが展示されていますのでオススメします。
古代渡来系氏族・狛氏ゆかりの本格的寺院跡。一度見てみたかった。ついに見学。
日本初の本格的寺院は蘇我氏が関与した飛鳥寺とされるが、この高麗寺跡も、狛氏はもちろん、蘇我氏の影響もあったはず。素晴らしい史跡。伽藍配置の解説板も整備されている。
「こうらいじ」と書いて「こまでら」と読みます。163号線の抜け道になっているらしくスピードを出した車が多いので気をつけてください。駐車場はありません。ここから北東15㌔の場所にある童仙房の高麗寺とは関係は無いようです。
全くの自然の風景の中に案内板があり、建物跡の基礎が残っています。目を閉じなくてもいっきに1300年以前にタイムスリップできます。草むらに寝転がり大空を眺めると、それは奈良時代の人々が眺めていた空。いいところです。
田圃に囲まれた中にポツンと、素晴らしい寺院跡で建物を想像しながら時間を過ごせます。
木津川の北側の斜面の広い場所にあります。コウクリでコマと読むそうです。上狛駅もこのお寺から名前からきたのかな?木津川沿いのお寺が廃寺になってるのは、洪水や台風のせいでしょうか?
JR上狛駅から徒歩で向かうしか方法は無いでしょう。駐車場は無いです。狭い道ですが抜け道のようで車の往来があるので注意です。建造物は無いので想像力でスケールの大きな寺院があったことを描いて下さい。
高句麗からの渡来人が建てた寺の跡です。京都最古で、国内でも最古の寺院の跡です。塔とお堂の柱の跡しか残っていないので、塔の礎石のレプリカを載せています。周囲は特に何もなく、行くのも1車線道路をのんびりと行くしかありません。近くの駅も「上狛駅」「下狛駅」で渡来人がたくさん住んでいたことを伺わせます。木津川の対岸がよく見えますが、五重塔があった頃はもっと遠くまで見渡せたと思います。令和2年には工事が終わるとのこと。
名前 |
高麗寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/8,28709,36,420,html |
評価 |
3.8 |
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京都府最古といわれるお寺の跡。塔の礎石のそばに小さな青い柿の実が。調べみるとこの地方の特産のころ柿(古老柿)で柿渋の原料になったり、干し柿にしてこれまた特産のお茶のお店でお茶受けにしたりするそう。