両国駅近く、池江璃花子も訪れた!
株式会社ルネサンスの特徴
両国駅から徒歩5分でアクセス良好な立地です。
大きくてきれいな施設で快適に利用できます。
経営者の斎藤敏一が語る戦略が魅力です。
大きくて、きれい✨
立地もよく、定期的に利用させてもらっています。
駅から近い。
この会社、2019年3月期決算発表を2019年5月8日としておきながら、日経新聞4月19日付朝刊でいきなり決算報道があった。資本市場における決算情報開示の規律を軽んじているのでは?これで内部統制が適正と監査役が意見表明とはいかがなものか。本来、決算情報などのインサイダー情報は業務上必要な関係者に限るのが原則のはず。ホームページで一般投資家に開示する前に、なぜ日経新聞に開示する必要があったのか、なぜ4月19日に開示する必要があったか、その目的、意図を、一般投資家に説明するべき。ここのクラブ利用者として、日々感じている、ズサンなクラブ側の対応と根っこが同じ。
両国駅から5分ほど。ドラッグストアが入っているビルの上階。
両国のジュニアスイミングスクールに子供を通わせているが、そろそろ我慢の限界で退会を検討中。入会キャンセル待ちすらできないクラスがあるほど大人気のようだが、商売最優先なのか、人数が多すぎて指導が全く行き届いていない。2ヶ月ごとの進級テストまでに合格できるだけの力をつけてやろう、なんていう意気込みや気概はコーチから全く感じられず、子供たちをひたすら流れ作業のように泳がせているだけ。子供の泳ぎ方が悪くても、見ていないことが多いので指導もしてくれない。年齢に合わせた指導もできていない。未就学児に言葉で解説しても限界があるだろうに、長い時間をかけて説明している。結果、テストに不合格でも「次がんばろうね~」とコーチは他人事。親としては金を払っているので、合格まで持って行けなかった自分の指導力不足をもっと恥じてほしいのだが・・・。今から入会を考えている方は、他のスクールも良く見て比較検討した方がいいと思う。オススメはしない。
株式会社ルネサンス 代表取締役会長 斎藤敏一経営者が語る人と組織の戦略と持論。2016年8月22日。国内で売上高3位、世界で同10位というフィットネスクラブ大手ルネサンス。その創業者が斎藤敏一だ。 もともと畑違いの大手化学メーカーの技術者であり、その企業の新規事業としてスタートした。そうした出自が同社の人と組織にどんな影響を及ぼしたか。まずは起業ストーリーから見ていこう。斎藤敏一は京都大学工学部の合成化学科出身だ。大学4年生の時、同じ研究室にいたスイス人と共同研究することになり、それが縁でスイス連邦工科大学への2年間の留学を勧められる。レントゲンやアインシュタインなど、幾多のノーベル賞受賞者を輩出した超名門大学だ。すぐに行くことを決めたが、その後が不安だった。大学の研究者になるつもりはなく、まず新卒として入り、2年間の留学を認めてくれる企業を探した。国内留学制度を適用してくれたのが大日本インキ化学工業、現DICだった。2週間の新入社員研修を受けただけでスイス、チューリヒに旅立った。旅費は会社が出してくれたし、留学中の給料も保証してくれた。留学最初の冬休み、友人になったイタリア人に誘われ、彼の故郷のフィレンツェを訪れた。斎藤敏一が振り返る。「ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。ウフィツィ美術館で見たルネサンス三巨匠の絵に衝撃を受けました。いずれも絵画という1つの領域に閉じこもることなく、彫刻、建築、技術、詩作にも才能を発揮した天才であり、人間には無限の可能性が備わっていることを実感しました。私も一技術者という生き方に満足していてはいけない。そこから、ルネサンス、つまり人間性の回復および再生が私の生涯を貫くテーマになっていきました」帰国後の配属は当時、埼玉県浦和市にあった中央研究所だった。ここでスイスでの生活との落差を痛感する。「残業、休日出勤と仕事オンリーの生活です。留学で勤務時間内に仕事を終え、芸術鑑賞やスポーツを楽しむヨーロッパ型の生活スタイルが身についていたため、毎日が苦痛でした」普通なら「食うためなら仕方ない」と流されてしまうものだが、斎藤敏一は違った。3年後、千葉の市原工場内にあった石油化学技術部への異動を機に、社内外の技術者を巻き込んだ勉強会、落語同好会、テニスサークル、大規模日曜農園を次々に立ち上げ、活動に励んだ。「アマチュア落語家としては『遊び亭一生』を名乗り『技術者を“落伍”(落語)して』なんて駄洒落を飛ばしていました。実際、技術者の仕事に向いていないと実感し始めていました。仮説と実験、検証を繰り返す技術者には辛抱強さが求められます。一方、サークル活動は、テニスをやって爽快になった、落語を聞いて面白かったと、成果がすぐ表れる。それこそサービス業の本質ですが、そっちの方が性に合っていると思い始めていました。もちろん、仕事はきちんとこなし、結果を出していましたから、会社からのお咎めは一切ありませんでした」こうした活動はいわば趣味の延長線上だったが、図らずも、お金が介在するビジネスに発展する。落語会をよく開いていた千葉市内の商業施設が斎藤敏一の企画力に着目、「スペースが空いたのでタダで貸してもいい」と言ってきたのだ。斎藤敏一は申し出を受け入れ、そこに、当時ブームになりつつあった「カルチャースクール」をオープンさせた。ターゲットは主婦および女性とし、課目は華道、書道、アートフラワーなど。これが当たった。1人だけ雇ったパートの事務員の給料どころか、家賃を支払うほどの余裕も生まれた。スクール名は後に「エコール・ド・ルネサンス(ルネサンスの学校の意)」と決まり、東京にも進出、銀座校の他に3つの分校ができる。この仕事は斎藤敏一にとって、いわば副業であり、厳密にいえば「就業規則違反」だった。だが、石油化学技術部から異動し、当時所属していた海外事業部の上司はスイス留学時代のメンターでもあり斎藤敏一を変わらず評価してくれ、副業を黙認してくれていた。あまつさえ、同事業を大日本インキの社内ベンチャーにしようという斎藤敏一の構想にも理解を示してくれた。そこからフィットネスクラブにどう結びつくのか?運命とは面白いもので、斎藤敏一の所属する海外事業部にテニスで全日本クラスの腕をもつ青年が新卒で配属されてきた。斎藤敏一は彼がコーチとしてアルバイトしていたテニスクラブに、クラブ運営について知るために、試しに通ってみた。2人は年の差を超えて親しくなった。1年ほど経つと青年が「会社の仕事が面白くないから辞めたい。アメリカにテニスの勉強に行きたい」と相談してきた。斎藤氏にとって渡りに船の話だった。「テニススクール事業を考えている。君にぜひヘッドコーチになってほしい」と口説いた。その頃、競争が激化し始めていたカルチャースクール事業からテニススクール事業への転換を図り、屋外とは違って主流ではなかったインドアの形態にすることを決めていたのだ。問題は既存事業と無関係という点だ。経営陣からそこを突かれたら、どうしようもない。「唯一の接点が製造と販売に乗り出していたウレタン樹脂で、テニスコートの舗装やシューズの靴底に使われていました。そこで、企画書に、ウレタン樹脂の販売促進のため川下のインドアテニススクールに進出すべきだ、と書いたのです。まさに落語的企画書でした」会社は幸いGOサインを出してくれた。事業の将来性を見抜いた英断といえる。1979年、斎藤敏一が35歳のときである。子会社ができ、そこに出向することになった。千葉市幕張に最初に作ったテニススクールは成功した。2カ所、3カ所と増えていった。当たりすぎると真似する会社が出て市場が駄目になる、という理由から、他との差別化を図るため、スイミングスクールやジム、スタジオを付設し、フィットネスクラブへの業態転換を推進する。1992年6月斎藤敏一が社長に就任した。取り組んだのが「生きがい創造企業」という企業理念の明文化だった。「自分の生きがい、社員の生きがい、お客様の生きがい、その3つを創造する場がルネサンスであると。ただお客様の生きがいという意味では、最近、中身が変化しています。高齢社会の到来を受け、お客様の3割近くが60代以上の高齢者になっており、レジャーという意味のスポーツ産業から健康産業に大きく舵を切りつつあるからです。病気にならない体づくりという意味の生きがい提供が大きくなっているのです」斎藤 敏一株式会社ルネサンス 代表取締役会長1944年宮城県生まれ。1967年京都大学工学部卒業、大日本インキ化学工業株式会社、現DIC入社。1967年スイス連邦工科大学へ留学。1969年帰国。研究所、石油化学技術部、海外事業部を経て、1979年に健康スポーツ事業を企画し、ディッククリエーション、現ルネサンス設立。1992年社長に就任。2008年より会長。株式会社ルネサンス主要株主 DIC株式会社 47.71%三菱地所 6.63%ルネサンス従業員持株会 3.30%斎藤 敏一 2.80%2012年3月31日現在リクルートマネジメントソリューションズ※本稿は弊社機関誌 RMS Message vol.41 連載「Message from TOP 経営者が語る人と組織の戦略と持論」より転載・一部修正したものである。
名前 |
株式会社ルネサンス |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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