和田義盛を偲ぶ歴史の塚。
塚の特徴
和田塚は北条義時と和田義盛の激闘、和田合戦の結果として伝わる塚です。
大河ドラマのファンに訪れたくなる、歴史的な逸話が豊富な場所です。
戦死者が眠る和田塚は地元の住宅地にあり、静かな雰囲気を醸し出しています。
江ノ電 和田塚駅近くの和田一族の供養塔や石碑のある一角。道路より一段高くなっていて、子供のころは大地震の時はここに逃げるようにと言われていました。
とてもきれいに整理されており、和田義盛が今でも大事にされていると感じました。
江ノ島電鉄和田塚駅から徒歩約1分くらいの場所にある供養塔になります。供養塔がある場所は石垣に囲まれ一段高い場所になっていて大小20基余りの五輪塔や供養塔が祀られています。この一帯は、北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)した際の主戦場になり、和田一族は敗死することになります。その際の亡骸を埋葬し供養した塚として伝承されています。
鎌倉市由比ヶ浜にある供養塚。鎌倉時代に幕府の侍所別当の和田義盛と執権北条義時が対立し和田合戦が起きました。最終的に和田義盛以下和田一族200名以上が討ち取られ戦いは終結しました。戦いの舞台となった由比ヶ浜では多数の人骨が発掘され和田合戦の和田方のものだと言われています。供養塚が建てられる以前からこの場所は古墳があったそうです。多数の供養塔や和田義盛一族墓の他に戦没者や関東大震災の犠牲者の供養塔も建てられています。
2024/9/8和田義盛については多くが語られているので、塚の碑について記す。①石碑 和田一族戰没地(板状方形)「和田一族戰没地・鎌倉保勝會長 男爵 沖守固〜明治四十二年九月二十五日竣工」ー1,909年建立。鎌倉保勝會:明治18年に設立された史跡名勝等の保存を目的とした民間団体。沖守固(おき もりかた):幕末〜明治の武士(鳥取藩士)/絵師/内務官僚/政治家、1,881年11月神奈川県知事。勲章等1,900年男爵/位階 1,906年従三位。②石碑 和田義盛一族墓(自然石)「和田義盛一族墓・明治三十四年二月十八日〜古郡保忠後裔 古郡静 建之」ー1,901年建立。古郡(ふるごおり)保忠:建暦3年(1,213年)の和田合戦で、和田義盛の挙兵に参加し、鎌倉で義盛勢が敗退すると古郡経忠/保忠兄弟は和田常盛や横山時兼らと波加利荘(山梨県都留郡)へ敗走し自害したとされる。これで、墓を建てた人との関係が理解できる。
極楽寺から成就院をお参りし、30分ほど歩いて和田塚にお参りしました。鎌倉時代に泉親衡の謀反がきっかけで鎌倉を火の海にした和田合戦で敗北した和田義盛の一族を祀っています。道路から少し高くなった所で、気づかずに通り過ぎそうでした。古い石碑が並ぶ中に新しい石碑でそれと分かるようになっています。今は静かに眠っています。
建保元年(1213年)に和田義盛一族が北条義時をはじめとした幕府軍に追討され、一族殲滅となり埋葬された塚と言われています。同族の三浦家の裏切りがなく、坂東からの援軍も来ていたら歴史はどうなっただろう。などと思いながらお参りしてまいりました♪
和田塚和田塚は建保元年、赤倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている。大正末年ごろの開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。鉄倉の歴史を誇る上で貴重な遺跡である。社団法人 由比ヶ浜青年会平成24年5月現地掲示より。
【鎌倉散歩2の2、関東の先祖達】#和田塚 鎌倉駅より一駅で和田塚駅#北条泰時 #三浦吉村 ともに鎌倉開府をば為した御一門、二代 #源頼家 王権確立において鎌倉内乱の如くなり、#得宗 北条 三浦と対立潮風ただよふ、かの由比ヶ浜で御家門 全滅しその碑だ、#三浦義村 も先祖だ桂浦(勝浦)正木は分家紀州、水戸 徳川家 吉宗からと、徳川をつくっていく、帰りは潮風の反対に歩けば鶴岡八幡宮 鎌倉駅へ行ける徳川わ廣 Tycoon
| 名前 |
塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0467-23-3050 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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1216年、鎌倉幕府内の勢力争いで和田義盛が第2代執権北条義時に対し挙兵、敗れて一族は滅亡しました。敗死した和田一族を埋葬した塚と伝承されています。