歴史漂う山辺御縣社。
山邊御縣座神社の特徴
意外な場所に位置する山邊御縣座神社、訪問価値ありです。
祭神・建麻利尼命の神社で、説が多彩なのも興味深いです。
天理教の建物が近くにあり、特異な立地を楽しめます。
詳しくは検索して下さい。
山邊御縣神社、奈良県天理市別所町。主祭神=建麻利尼命。石作連、桑田連、山辺県主の祖。火明命の6世孫。玉垣宮。過去、尾崎山を御神体とした。論社~西井戸堂町も。少し山の影となる場所で静か。林に囲われている。本殿の他、3つの境内社=春日、熊野、菅原。#物部氏。
大和国六御県神社の一つ 式内社「山邊御縣坐神社」は『延喜式』神名帳に大社に列せられております、ご由緒は不明です 拝殿は桟瓦葺の平入切妻造、拝殿後方に玉垣に囲まれて銅板葺の一間社春日造の本殿が建っています。駐車所ありますが進入路は狭いのでご注意を。
意外なところに御縣社があるもんだと思い訪ねてきました。南側はほとんど天理教の施設によって景色は開けません。教祖の墓の近くですがあまりのギャップに驚きました。
山辺御県坐神社やまのべみあがたにいますじんじゃ奈良県天理市別所町726祭神建麻利尼命(たけまりねのみこと)とはいえたくさんの説あり祭神不明との説も式内社(大社)の論社で奈良県天理市西井戸堂町にもあり諸情報駐車場なしトイレなし道中特に困難な所なし。
天理教の建物が密集しているあたりにあります。神社の近くは道が細いため、広い道沿いの駐車場に車を停めて徒歩で参拝しなければいけません。山辺御県坐神社A:天理市別所町県谷B:天理市西井戸堂町大門祭神--建麻利根命 延喜式神名帳に、『大和国山辺郡 山辺御県坐神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、論社(後継候補社)として上記2社(上記A・B)があり、いずれとも決め難いという。社名は“ヤマノベノミアガタニマス”(又はヤマノベノミアガタノ)と読む。※由緒 当社は、大和国にある6ヶ所の御県(ミアガタ)の守護神として設けられた御県坐神社の一社。 御県とは、延喜式の祈年祭祝詞(トシゴヒノマツリノノリト)に、 「御県においでになる皇神(スメガミ)等の前に、『高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名を申してお祭り申し上げます所以は、この六つの御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を持ち参り来たって、皇御孫命(スメミマノミコト)の長久の召し上がりものとして、召し上がられます故に、皇孫等のその恩賴に対する御礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ献ります次第です』と・・・」とあるように、朝廷に蔬菜などを供給する朝廷直轄地(御料地)をいう。 当社を含めて御県神社6社の創建年次は不明だが、書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月5日条に、 「国司に対して、倭国の六つの県に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検地せよ」と命じていることから、7世紀中頃にはあったと思われるが、確証はない。 当社についての史料上での初見は、天平2年(730)・大倭国正税帳(正倉院文書)に 「山辺御県神戸 稲二六二束□把半 租十束 合二七二束□把半 用四束祭神 残二六八束□把半」とある記録で、次いで新抄格勅符抄の大同元年(806)牒(奈良時代以降、社寺に与えられた封戸の記録)には 「山辺御県神 二戸」とあり、当社が8世紀にあったことは確かといえる。 また、当社に対する神階授与記録として、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に 「大和国従五位下・・・山辺御県神・・・従五位上を授く」とあるが、その後の昇階記録等は見えず、所在地を含めて不明となったという。 当社の論社(後継社候補)として ・大和志(1734・江戸中期) 「山辺御県坐神社 西井戸堂村に在り」 ・大和志料(1914・大正初期) 「山辺御県坐神社 山辺村大字別所県谷に在り 亦云ふ、二階堂村大字井戸堂に在りと、拠なし 当国六御県神社の一にして山辺御県神を祭る」の2説(天理市別所町・同西井戸堂町)があるが、その比定根拠ははっきりせず、いずれとも決し難い。
| 名前 |
山邊御縣座神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33632 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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山辺御県坐神社(やまべみやがたじんじゃ)。奈良県天理市別所町。式内社(大)論社、旧村社。【祭神】建麻利尼命(タケマリネノミコト)資料によると、別所集落の東方、尾崎山の南麓に位置する。明治初年迄は本殿はなく、玉垣を設けて後方の尾崎山を御神体として奉齋し、俗に玉垣宮と称したと云う。明治13年頃、玉垣内を発掘した際に刀劔、金環等の残欠が出土した爲、発掘を中止してその上に本殿を造営したという。現在本殿の後方玉垣の外に磐座の遺址が保存され、齋宮と称している。西井戸堂町に鎮座する同名の「山邊御縣坐神社」と共に式内社「山邊御縣坐神社」の論社となっています。明治以前に当社を山辺御県坐神社と称した記録はなく、字名を県谷と称する事を論処としての推定である。当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、かつて大和国にあった六ヶ所の朝廷の直轄地「倭の六県」(高市県、葛木県、十市県、志貴県、山辺県、曽布県)の一つ「山辺県」の守護神として祀られたものと考えられます。これら「倭の六県」は『延喜式』祝詞に見え、蔬菜類を栽培し献上するための農園のような地だったことがわかります。現在の当社の御祭神は「建麻利尼命」です。この神は物部系の史書『先代旧事本紀』にニギハヤヒの六世孫として登場し、「石作連」「桑田連」「山辺県主」らの祖であると記されています。この内、「山辺県主」を当社の奉斎氏族としてその祖を祀ったと見たものでしょう。北方100mには大塚を中心とした北山千塚と呼ぶ大小古墳群があり、当社はこの古墳群中に存在する。とあります。