樹齢500年の銀杏が映える神社。
厚木熊野神社の特徴
現在の社殿は昭和四年に建築された歴史ある神社です。
銀杏の木は天然記念物で、美しい木陰が魅力です。
公園が隣接しており、保育園の子どもたちも遊びに来る場所です。
2024年1月29日㈪小さな神社と小さな公園と大きな木。この地元の神社って感じかいいねー。
神社の周囲に高い建物が多くないためか樹齢500年とも言われる銀杏の威容は遠くからでも目印となり、ちょっとしたランドマークのようになっているように思います。
現在の社殿は昭和四年の建築である。有形資料:水鉢(明治四十年銘)
街中の公園もある神社です。
ペンキが剥げ落ちてる。ペンキぐらい綺麗に塗ってあげてください。神様がかわいそう。
子供の七五三を此処でした。
先日の台風で天然記念物でも有る銀杏の木の半分が倒木しちゃいました。
銀杏の木陰が心地良い。
保育園の子どもたちも遊びに来る地域の神社。ここの大きなイチョウは樹齢300年以上にもなるそうで、厚木市の指定文化財にもなっています。毎年秋にお祭りがあります。
| 名前 |
厚木熊野神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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書にて「熊野神社」をしらべてみます。【厚木熊野神社の話し】この神社は京都の聖護院を本山とする「本山修験」の神社であって、管理運営していたのが「熊野堂」という寺院でした。明治初期の神仏分離、廃仏毀釈、修験禁止により「熊野堂」は廃寺となり、熊野神社も明治6年に近隣の「厚木神社」へ合祀されました。後に、「熊野神社」だけが現在の場所に再建されました。熊野堂は現存しませんが、厚木熊野神社の北側には今でも鎌倉時代から続く僧侶たちの墓碑が残されています、と書にはありましたが、色々調べてみると現在は存在しないようです。_______________❷【参考 新編相模風土記稿 1841年】〇熊野三社例祭は9月9日です。(三井の長吏である)大僧正・行尊(ぎょうそん)が勧請したと伝えられています。古くは厚木村の総鎮守でした。末社 稲荷社。昔は本社より3町(約330メートル)ほど隔てた相模川のほとりにありましたが、川のルートが変わって境内が削られてしまったため、元和年間の頃に現在の場所へと移転したと伝えられています。鐘楼 天明2年(1782年)に再鋳した鐘を掛けています。神木 銀杏(イチョウ)。〇別当 熊野堂( くまのどう)あるいは「熊野寺」と称します。長授山厚樹院と号します。京都の聖護院(しょうごいん)を本寺とする本山修験です。京都の護持院(ごじいん)より、代々「年中行事職」を承っています。古くは「先達でしたが、永禄8年(1565年)に本山の許可を得て、東光坊がその役職を継ぎました。大僧正・行尊がこの地を開基して以来、しばらく衰退していましたが、嘉禄元年(1225年)12月15日に中興されました。その後、文明18年(1486年)に、聖護院の門跡(門主)である道興准后(どうこうじゅんごう)が、東国を巡礼した際にこのお堂に立ち寄られました。(「回国雑記」という旅日記には、「熊野堂という場所に立ち寄った際、すでに小野という名の里に入っていた」という旨が記されています。)その後、再び衰退してしまいましたが、大永5年(1525年)に「快祐(かいゆう)」という僧侶によって再び中興されました。(下記の[乗乗院僧正御教書]参照)本尊は不動明王で、像の高さは1尺5寸(約45センチメートル)、弘法大師の作と伝えられています。古くは本社の東側、相模川に添って寺地がありましたが、元和7年(1621年)に洪水で川に没してしまったため、現在の場所(本社の北側、1町(約110メートル)ほど離れた場所)に移転しました。お寺の資産として、寺領4石の御朱印を戴いています。[寺寶]瀧見観音の画像(一幅) 牧谿(もっけい)の筆と伝えられています。不動像(一幅) 長さ5尺(約150センチメートル)智証大師(円珍)の作と伝えられています。独鈷(とっこ)(一箇)浄化廣所特の物(非常に清浄で貴重なもの)と云われています。古文書(二通) これらは前に注記した通りです。________________【京都本山からの意向伝達の手紙の話し】下記の[教書]では、室町時代末期(1525年)当時の熊野堂のリーダーが引退した為、「山崎薩摩快祐(かいゆう)」が新しいリーダーであると、京都の聖護院の意向の決定内容が伝達されている様子が分かります[氏名未詳證文]は[教書]から40年経過して、本山である京都聖護院から正式な許可証をもらった「東〇坊(〇は文字欠け)」という人物が、晴れて新しいリーダーとして認められ、土地や信者をすべて引き継いだことが記されています。※新編武蔵風土記に「東光坊」と記述があります。2つの文章もみるに、京都本山と密に連絡を取り合いながら組織を維持している事がわかります。❶【参考 新編相州古文書 昭和19年】[乗乗院僧正御教書]相模国の熊野堂の先達(修験者の指導者の事)が、近年、役職を退いて隠居したとのことです。そのため、その跡を継ぐ門徒や檀那らのことについては、山崎薩摩快祐(かいゆう)にこれを管理・祈祷するよう命じました。皆々はこのことを承知しておいてください。乗乗院の僧正(聖護院の最高責任者)のお部屋からこのように仰せつかりましたので、ここに謹んでお伝えいたします。大永五年(1525年)四月二日秀栄(花押)快延(花押)当国諸山臥御中(相模国内の各修験道場・山伏の皆様へ)ー・-・-・-・-・-[氏名未詳證文]相模国の厚木熊野堂の跡職の件についてです。これまでの経緯により、東〇坊が京都(本山の聖護院)の証文を正式に受け取りました。そのため、ぜひとも望んでいた通り、この間、□□□□(名前が欠けている人物)が務めていた先達の職務、およびそれに付随する寺領や財産、そして檀那たちを引き継ぎ、管轄することになりました。この決定は以上の通りでございます。永禄八年(1565年)乙丑六月廿一日[差出人の名前は欠落](花押)