甲府市の歴史遺構に触れる旅。
真田弾正忠幸隆屋敷跡の特徴
甲斐武田氏家臣の歴史を感じられる場所です。
設置された碑と説明板が魅力的です。
甲府市の遺構整備に対する情熱が伝わります。
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住宅街です。
碑と説明板がありました。
甲府市が歴史的な遺構整備に情熱をかけていることが伝わってきます。
名前 |
真田弾正忠幸隆屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
|
評価 |
4.0 |
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甲斐武田氏家臣・武田二十四将の一人。又二十四将には幸隆他・息子である真田信綱・真田昌輝・真田昌幸(武藤喜兵衛)の3人も含む。1513年~1574年出生は確実には明らかでない。信濃国小県郡(長野県東御市)の出身で地豪族の出で、真田荘(長野県真田町)に在住した事から真田姓を名乗ったとか。幸隆の名より幸綱が多く残る。1541年、甲斐国統一後、小県方面に侵攻した武田信虎により、幸隆は上州吾妻・羽根尾城羽尾幸全を頼り避難、関東管領上杉氏配下の箕輪城長野業正に預けられた。まもなく、甲斐国内においてのクーデターにより国主・武田信虎の駿府追放・嫡子晴信(後の信玄)が国主になる。幸隆は上杉配下の立場から旧領回復を図るが、頼みの上杉憲政にその力なく、見限るように代替わりした甲斐武田晴信に臣従する。1545年、武田配下になり晴信の元、幸隆は数々の功績を残す事により旧領真田荘の真田本城(松尾城)、岩尾城に帰還する。その後、真田幸隆は「信州方先方衆」として、武田家の信濃侵攻に大いに貢献する。1548年上田原の戦い、1550年砥石城攻めにおいて、武田軍は2度の大敗を喫するが、1551年真田幸隆単独で砥石城を再度攻撃、謀略を駆使して攻略に成功する。この功績により旧領他諏訪・上条なども加増される。武田家にとっては外様であるが、軍師・参謀役として武田晴信から絶大な信頼を得て、譜代衆と同格の扱いで府中屋敷(躑躅ヶ崎館)に屋敷を構えた。晩年は真田一徳斎と称し、武将として優れていた嫡男信綱・次男昌輝にお家の事は一任するようになるが、1563年重要局面であった岩柩城攻略には信玄の命で幸隆自ら参戦、調略により落城させた。1573年西上途中に信玄死去すると、幸隆も信玄の後を追うように1574年、砥石城にて病死。享年62歳であった。一度、武田により領土を追われ、関東管領上杉氏に頼るが、上杉氏が頼るに当たらないと判断すると、旧敵武田の懐に入る。その戦国時代を生き抜く才覚は見事。後、真田を継ぐ事になる三男「真田昌幸」は豊臣秀吉より「表裏比興の者」と称されたが、その才は父・幸隆から受け継いだものか。信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼は「長篠の戦い」を重臣の反対を押切り強行、結果多くの重臣を失い大敗、武田家はこれを境に滅亡への道を進む。この「長篠の戦い」では真田幸隆の嫡男・信綱、次男・昌輝も討死する。これにより真田の家督は三男・昌幸に継がれる。真田家はその後、昌幸そしてその嫡男信幸・次男信繁に。信幸は徳川幕府において松代藩初代藩主、信繁は浴に呼ばれる幸村として「大阪の陣」で華々しい活躍での戦死。と名を残す。