長篠の地に眠る鬼美濃の壮麗。
馬場美濃守信房の墓の特徴
静かな畑に囲まれた、馬場美濃守信房の豊かな歴史が息づく場所です。
武田四天王の一人として知られる馬場信春の首塚がある歴史的な史跡です。
長篠城跡からすぐの位置にあり、訪れる価値のある貴重なスポットです。
武田四天王の一人、馬場信春公のとても立派なお墓です。長篠城址から徒歩10分ほどの場所にあります。畑の中の拓けたとても静かな場所で、きれいに整備されていました。実際に討ち死にをした場所は豊川に架かる猿ヶ橋付近で、そちらの近くにもお墓があります。こちらのお墓は討ち死にした後に、首が埋葬された場所だと言われています。享年62歳ですが、それまでの戦でかすり傷一つ負わなかったため「不死身の鬼美濃」と言われていました。長篠・設楽原の戦いでは殿(しんがり)を務め、武田勝頼公が落ち延びるのを見届けてから自ら首を差し出したと言われています。その時まで、やはり傷一つ負っていなかったそうです。
長篠城の跡をめぐりながら歩きました。馬場美濃守信房は、武田信虎、信玄、勝頼の3代に仕え、40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったされる武将。そのため現代では、「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されているそう。長篠の戦いでは、退却する武田軍の殿をつとめ、内藤昌秀と共に残った兵数百で連合軍の大軍を阻んだ。追撃する織田軍と戦い、織田家家臣原田直政の配下、河井三十郎に討ち取られたとも、首を差し出したとも言われる。以上ウィキペディアより。
武田家の重臣であった馬場美濃守が眠る場所、周囲には畑が広がる静かな場所だ。人も多く訪れる場所ではないので、ここではゆっくり物思いに耽ることができた。なお、お墓には駐車場はないので、車で来た場合は周辺の店舗の駐車場を利用させてもらうしかないかもしれない。お墓の側にある駐車場は、別の施設の専用駐車場になっている。また、近くにはマンションもあり広い駐車場があって間違いやすくなっているので、そこに駐車しないように注意しておきたい。
不死身の鬼美濃と言われた、馬場信房の墓です。今回、長篠城周辺 の史跡巡りの最大の目的でした。馬場信房は、武田四天王でも山県昌景の次に好きな武将です。武田三代に仕え武田家を支えた大黒柱の一人です。最期まで武田家の為殿を努め、武田勝頼が無事落ち延びたと知った後にあえて敵兵に首を与えたと言う話にも感動しました。
長篠城址史跡保存館から国道に出て左方向へガススタンド手前左側に舗装切れた少し農道へ馬場信房公、武田勝頼の退去を見届けてから討死とか設楽原歴史資料館からは10分近く車で掛ります。
武田四名臣の1人馬場信春(信房)公のお墓です。長篠、設楽の戦いで殿を務め無事勝頼を退却させた後に壮絶な討死したとの事。近くに中央構造線もあるので良ければセットで見に行かれる事をおすすめします。
長篠の戦いで武田方の殿(しんがり)を務めた馬場美濃の首塚です。長篠は戦国期で重要な戰のあった場所だけあってたくさんの史跡がありますが、桶狭間と違い山間部の場所にあるため、当時のまま残ってるであろう様相を呈してます。この墓も川沿いでまわりは畑に囲まれ、激戦の末慌てて埋めた感が想像できる場所にあります。長篠城址のハイキングコースにもなっており、歩いて散策されるのも良いと思います。
長篠設楽原合戦の史跡のひとつ。武田四天王のひとり馬場信房公の墓と伝わります。実はもうひとつ別の場所(鮎滝方面)にも馬場信房公の墓が伝わり、そちらの墓にはさらに馬場信房公討死の地の案内図もあります。これ等含めて巡るとより一層感慨深いでしょう。
武田四天王馬場信房(信春)の墓。長篠設楽原の合戦のもの悲しさの象徴。トップが独断で突き進んだり信じる者を間違えると失う物が大きく取り返しのつかない事となる・・・。長篠設楽原における武田家の多大なる損失の一つ。馬場級の優秀過ぎる忠臣を何人も失った武田家は滅亡へとひた走る訳で。武田勝頼の生い立ちから考慮した儚さも解るのだが、長篠においてはあまりに無能だった。
名前 |
馬場美濃守信房の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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2023年12月26日に墓参しました。天正3年1575年の長篠の戦いで武田軍の殿(しんがり)を務め、戦死した馬場美濃守信房の首を埋葬した場所です。