天方新城から絶景を一望。
天方城跡の特徴
天方城跡からは浜松城や遠州灘が美しく見渡せる展望台があります。
城ヶ平公園には数本の大きな赤松があり、静かな雰囲気の中で楽しめます。
道中は狭くてすれ違いが厳しいですが、景色を見るために登る価値ありです。
展望台からの景色は良かったです。道がかなり狭い道なので注意。軽自動車同士でもすれ違いできない道でした😅
素晴らしい城跡でした。立派な展望台があり、眺めが素晴らしい!駐車場も広めですし、トイレも綺麗でした。横堀や土橋など、戦国時代の遺構がほぼそのまま現存しているとおもわれ、いいところでした。
道中の道幅は狭く、車のすれ違いが厳しい場所もありますただ、すいているので、あまりすれ違うことは無いかも展望台からの眺めは良いですよ。
静かで眺めも良く綺麗に整備されている公園です。
見晴らしに優れた山城で、立派な展望台(物見櫓)からは浜松城や遠州灘を望むことができる。道路に対して建物が斜めに連なる戦国時代の面影を残した城下町の街並みも見どころのひとつ。
城ヶ平公園として整備されていて、数本の大きな赤松が美しい。堀もその形状を残している。南西方向の展望がよく、森町の市街地から遠くは浜松のアクトタワーを望むことができる🐹
細い道をくねくね登っていきます。ナビがないと入口がわかりづらいかもしれません。公園は山上にある割に整備されていましたが、トイレには大きな蜘蛛の巣がありました。遊具はほぼありません。展望所からは森町以南が一望できます。
天方城は天方氏の居城として知られ、戦国時代には武田信玄と徳川家康の攻防の場となりました。山頂の本丸跡では、内堀・外堀・土橋などの遺構を見ることができます。展望台からは森町から太平洋まで一望できます。ただし城跡までの道は細く、対向車が来てかなりの距離を二度バックしました。それなりのお覚悟を持って行ってください。
景色は最高。道は細くて怖いぐらいでしたが駐車場は広くてトイレもありました。
名前 |
天方城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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周智郡森町の天方城跡 AMAGATA天方本城と天方新城がありますが、城ヶ平公園の天方新城の方です。以下は【駐車場の説明板より】天方城主:天方通興の代になり、世は戦国乱世を迎えた。それまで駿河遠江を支配していた今川氏が義元の死後斜陽化、これをみた三河の徳川家康の遠州進攻の口火がきられたのは永禄十一年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方、甲斐の武田玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方通興は今川方の勇将として知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄十二年(一五六九)六月十九日家康は、「遠州に居ながら徳川に帰伏せされば」と、先陣:榊原康政・天野康景・大久保忠隣をして天方城攻略のため進撃郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。天方通興もよく攻防したが、遂にカつきて降伏。翌、元亀元年(一五七〇)十月には、御下知(命令)に従わずに軍兵を集めてたて籠ったため、再び大須賀康高・榊原康政を先登して外曲輪を責め破る。天方通興防ぐことかなわず降伏し、徳川の支配下にはいった。それから三年後の元亀三年(一五七二)九月下旬、武田信玄は四万余名の大軍をひきいて犬居城主、天野景貫の案内で多々羅、飯田の二城を攻略し天方城にせまった。天方通興は、風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。そこで信玄は久野忠宗を残して、天方通興とともに天方城を守らせた。翌、天正元年(一五七三)三月家康は、「信玄へ降伏し先達となりし徒(なかま)を置くべきにあらず」と、平岩親吉を将として、天方城攻略を決行した。先にこの城に残った武田の臣:久野忠宗は、城兵を指揮して大手の門を切って出て、散々に戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺政綱、渡辺守綱らは烈しく攻め、ついに外廓を攻破り本丸を攻めかこむこと三日、城主:天方通興と久野忠宗は必死に防戦したが、遂にカつきて再び降伏し久野忠宗は甲斐へ逃げ去ってしまった。遠江国風土記傳には、のちにまた甲州の持城となったが、天正二年(一五七四)三月、家康は遠州の軍兵を引率し、天方城を責め三日のうちに攻落、この城に軍兵を置くとある。