村田宗之助の墓石と蓮如堂。
前ヶ須蓮如堂の特徴
整備の行き届いた境内は訪れる人々を魅了する、愛知県の仏教寺院です。
村田宗之助の墓石がある歴史深い場所で、興味深い伝説が息づいています。
周辺住民に護持されている前ケ須教会の存在が、地域との結びつきを強めています。
ちょっと古くなってきた。大事にしていこう。
新田開発・遠浅により航路が南に離れた七里の渡しに代わるルートとして新東海道を開いた村田宗之助の墓石があります。・釋一順 明治十五年六月五日 村田宗之助。
この蓮如堂は周辺地区住人により前ケ須教会として護持されているそうです。御本尊は蓮如上人直筆の裏書と言われる「絹本阿弥陀如来画像」だそうです。関ヶ原の合戦で西軍石田三成方に属し敗れた大垣城主伊藤彦兵衛盛景の子孫2代目城主盛宗が敗走する際、領地であった安八郡大嶋の足近満福寺にひそんで女人衆にかくまわれていました。ところがここも隠れているには危うくなり逃げることになりました。その時に安八郡の女人講が越前の吉崎御坊で蓮如上人より直々に頂戴した上人染筆入りの阿弥陀如来画像を戦禍から守るためと武運を祈るために盛宗に持たせ 盛宗はそれを背負って木曽川河口の前ケ須まで逃げ延び隠遁しておりました。盛宗も浄土真宗の信者であったためこれを大切に自宅に祀っておりましたが村の信者が次々に参拝に訪れるため自宅近くに阿弥陀如来画像をご本尊として草庵を作りました。この草庵は明治維新まで伊藤家代々に守られてきましたが維新をきっかけにこの維持を前ケ須の村人に託しました。前ケ須地区の発展とともに信心家、信徒が法座のできる大きなお堂を作ろうと 村人は明治44年3月に新たに筏川堤に新しい仏堂を建立して村の持ち寺(無僧の畳寺)としました。終戦後の昭和26年4月には蓮如上人450年遠忌法要が行われ稚児行列もあり盛大だったそうです。しかしその年の7月前ケ須大火(20数戸が全焼)で延焼して堂は焼け落ちてしまいましたが幸いご本尊と仏具は運び出されて無事でした。村人は大切なお堂を早く再建すべく翌年には佐織町勝幡の光坊堂を譲り受けて移築再建し今に至っています。その後 昭和59年には内陣を金箔にし、阿弥陀如来像を改装して300年祭を執行しました。寺伝によると 蓮如上人からいただいたという阿弥陀如来画像は国内に三幅のみだそうです。昭和62年には表装を新しくしました。軸裏には「吉崎御坊で蓮如が花押し、文正元年(1464)3月に美濃安八郡女人講で下賜した」と書いてあります。現在は地元の住民が毎朝交代で御仏飯をお供えしています。毎年蓮如上人の命日(旧暦3月25日ですが4月下旬の土日)を蓮如まつりとして法要を行っています。昭和の時代は蓮如堂前の道路は東西1キロ近く屋台や夜店 植木屋もたくさん出て大変な賑わいでした。今でも 地元弥富市 特にこの地区の人々はお堂のことを「蓮如さん」と親しみを込めてよんでいます。
名前 |
前ヶ須蓮如堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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きれいに整備されていました。