歴史とオーラが宿る国分寺。
下野国分寺跡の特徴
雄大な景観を楽しめる国分寺跡、歴史を感じる場所です。
整備された跡地で、かつての伽藍配置を想像しやすいです。
古墳資料館とともに巡る魅力的な散策コースがあります。
下野国分寺跡329-0417 栃木県下野市国分寺868国分寺跡がしっかり残されています。南大門跡、塔跡、中門跡、金堂跡・・・推定復元図を作ってくれているので、古代が見えます。素晴らしい所です。
広くて周囲がよく見渡せる場所に配置してあります。敷地規模は上野国分寺くらい。
奈良時代の史跡です。とても広大な土地ですが、綺麗に整備されています。千年も前、ここに七重塔があったとはとても思えません。森に流れる風も心地よいです。駐車場があります。
整備されていますが、当時の壮大さを実感するには建築物が必要かも。
広大だが、建物がないので子供には古の時代を思わせるモノはないが…、近くの古墳資料館⇨琵琶塚古墳⇨摩利支天塚古墳を先に見て、車で移動してここをみるのが良いかも。
「んー、またおま系?」奈良時代における一国一国分寺の政策により建立された、下野国における国分寺跡地であり、国指定史跡です。発掘調査の結果、金堂や南大門とそれを囲む回廊などの伽藍や、その脇にそびえ立つ七重塔の礎石などが判明しています。で、現状は芝生の公園として整備されています。国分寺って全国に60以上あるのですが、正直、整備状況はどこも似たような感じであり、最近は「またおま系(また、お前か)」の印象が拭えません。律令時代のおける中央集権の弊害なのか、どこも設計図が同じなんでしょうか、画一的で似たような作りばかりなんです。同時代の廃寺のほうが由緒や人物、建物の配置なども含めてバラエティに富んでおり、訪れた際の楽しみはあるように感じます。日本100名城のスタンプラリーはそれなりに流行ってますが、国分寺コンプリートを聞かないのは、国分寺はどこも同じような伽藍配置、現在の保存整備状況も似たりよったりで飽きちゃうんじないか、そんな理由かもしれません。しかし、ほぼ全国どこの国分寺u0026国分尼寺も国史跡、もしくは特別史跡になってますが、そんなに学術的価値ってあるのでしょうか?史跡指定の日付を見ると、殆ど(もしかしたら全て?)が大正から戦前にかけて史跡指定されています。これって、国分寺(と国分尼寺)建築は聖武天皇直々の詔だったから、戦前の皇国史観においてありがたがってただけなのでは?すみません。特に下野国分寺をディスるつもりは全く無いのですが、いろいろ巡っていると、国分寺全体に対してそんな印象を持ってしまいました。
u003d 歴史とオーラを感じる u003d下野市散策シリーズ②しもつけ風土記の丘資料館の駐車場から徒歩7〜8分、だだっ広い敷地に佇んでいる。昔の礎石や古墳が残り、井上靖の「天平の甍」のようなオーラを体感しましょう。
各建屋の礎石から、往時の伽藍配置が解明されたようです。かなり大きな寺院規模であったと思われます。さぞや建立当時の人々の目には、凄く驚異を与えたのではないでしょうか。仏教に対する畏怖の念を抱いたかもしれません。「しもつけ風土記の丘資料館」を先に見て、予備知識を持ってから、伽藍跡をご覧になる事をお勧めします。
東大寺も国分寺。
名前 |
下野国分寺跡 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0285-32-6105 |
住所 |
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HP |
https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0393/info-0000000453-0.html |
評価 |
3.6 |
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奈良時代に聖武天皇が全国に建立させた国分寺の一つ。寺域は南北457メートル・東西413メートル。伽藍は奈良東大寺同様の東大寺式伽藍配置で、南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂は回廊で接続している。塔は回廊の外側東方に設けられ、その基壇の大きさから七重塔であったと推定されている。そのほか、金堂・講堂の間の東西には鐘楼、経蔵が設けられていた。 発掘調査の結果、1期から5期に区分されている。 1期:8世紀中葉 - 創建期。塔・金堂などが造営される。 2期:8世紀後半から9世紀前半代 - 主要堂塔が完成。伽藍地は掘立柱塀で囲まれる。 3期:9世紀後半代 - 改修期。伽藍地は縮小され掘立柱塀は築地塀に建て替えられる。 4期:10世紀以降 - 衰退期。主要堂塔の補修・溝の掘り直しが行われなくなる。 終焉は不明ながら、発掘の結果からは11世紀-12世紀代まで法灯が伝承されたと見られている。