淀川を望む、秀吉ゆかりの広場。
御茶屋御殿展望広場の特徴
豊臣秀吉が文禄4年に建てた御茶屋御殿跡に位置しています。
淀川や京街道を見下ろす見晴らしが素晴らしい展望広場です。
枚方市駅から徒歩で行けるアクセスの良さが魅力です。
豊臣秀吉が文禄4年に建てた「御茶殿」があった御茶屋御殿跡にある展望広場です。淀川の河川敷、遠くには高槻や茨木の山々が一望できる素晴らしい展望に、とても清々しい気持ちになれました。古墳時代前期のものと推定される、万年寺山1号石棺もあり。この場所で歴史に思いを馳せながらゆったりとした時間を過ごすのもいいなと思いました。梅の名所でもあるようなので、またその頃に訪れたいと思います。
少し狭くてのんびりするにはあんまり適さないかもしれません。展望はまあまあってところでしょうか。年配の女性連れが大きな声でおしゃべりされていたので居心地悪し😖⤵️
見晴らしが素晴らしい。
枚方市駅から徒歩で行けてこんな自然に触れられる眺めの良い展望広場があったのか正直知りませんでした。ただ階段を登り降りする道中に草木が茂ってますので虫除けスプレーをふってから行く事をおすすめします。#御茶屋御殿展望広場#枚方#自然#眺め良好#お散歩#ウォーキング。
京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄4年(1595)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った枚方宿の火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。
京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄4年(1595)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。 京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。 その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った枚方宿の火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。
枚方駅の近くにこんなに展望の開けているところがあるなんて知りませんでした。
名前 |
御茶屋御殿展望広場 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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神社の鳥居を通りすぎてまっすぐ行くとここに到達します。見晴らしが良いです。神社参拝のあとここでゆっくりするのもよいかも。