江戸の歓楽街・浅草の魅力。
江戸猿若町中村座跡の特徴
江戸位置の歓楽街に位置し、歴史的な背景が感じられる場所です。
浅草三座を考えるきっかけとなる史跡として、多くの人に愛されています。
大衆娯楽円座の雰囲気を楽しめる貴重なスポットです。
江戸時代、この辺りは幕府が芝居興行を許した中村座、市村座があったそうで、そこから江戸の人は「二丁町」と呼んでいたそうだ。ちなみに、吉原は、廓内に江戸町1丁目、2丁目、京町1丁目、2丁目、そして角町(すみまち)があったことから「五丁町」という別名があったそうです。
江戸位置の歓楽街・浅草の近くに集められた大衆娯楽円座。現在はその形跡なく、説明板のみある。
江戸後期には、幕府の政策で中村座・守田座・市村座の三座がここ旧猿若町に集められた結果、日に千両(現代の貨幣価値なら、まあ一億円見当)の金が落ちたと言われる、一大娯楽地帯であった。明治になって三座ともこの土地を去り、いまでは静かな住宅街になっている。当時を偲ばせるものは、ほぼなにもないと言っていい。町名まで「浅草六丁目」と、素っ気ない。この立て看板も、しゃれた民家のまえに、所在なさげに立っている。
何もありません。
江戸後期には、幕府の政策で中村座・守田座・市村座の三座がここ旧猿若町に集められた結果、日に千両(現代の貨幣価値なら、まあ一億円見当)の金が落ちたと言われる、一大娯楽地帯であった。明治になって三座ともこの土地を去り、いまでは静かな住宅街になっている。当時を偲ばせるものは、ほぼなにもないと言っていい。町名まで「浅草六丁目」と、素っ気ない。この立て看板も、しゃれた民家のまえに、所在なさげに立っている。
名前 |
江戸猿若町中村座跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.3 |
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三十年ほど前、早稲田大学の河竹先生の講義を聞いて「浅草三座はどこだったのだろう」とこの辺りを捜し歩いたことがありました。「猿若町」という町名も被差別を想起させるということで表立って口に出すことがはばかられるような時代でした。価値観なんて簡単に変わるものだと、つくづく思います。