歴史を刻む小塚原刑場の地蔵様。
浄土宗 豊国山 延命寺の特徴
江戸時代から明治初期までの処刑場跡地に位置し、歴史を感じる場所です。
巨大な首切り地蔵はその迫力と大きさに驚かされ、存在感があります。
毎月24日の縁日には多くの参拝者が訪れる、地域に根付いたお寺です。
南千住日比谷線通勤時代 いつも見ていたお地蔵さま宗教法人のなせる技と当時思ってスルーしてましたが、とんでもない!小塚原刑場の霊を弔う歴史あるお地蔵さまだったのですね。東日本大震災で左腕落下と憂き目を見たようですが、いつまでもこの地で人人の安寧を見守ってほしいですね。
小塚原 (こつかっぱら) 刑場は、江戸時代からお仕置き場として斬罪・獄門・火罪・磔 (はりつけ) などの重罪の刑が執行され、埋葬された死者の数は延べ20万人にものぼると言われているが、その受刑者の菩薩を弔うため寛保元年 (1741年) に地蔵菩薩が造立されたという。お仕置き場は、刑罰や無縁、埋葬などに止まらず、江戸時代からペットの供養、名刀の試し切りや腑分け (解剖) に至るまで実に多彩な役割を明治期まで担った。実は、山谷エリアでもある南千住2丁目から5丁目は、日本の近代医学のスタートの地だったともいえ、オランダの医学書を入手した杉田玄白らが、この地で刑死者の腑分け (解剖) するところを見学し、ターヘル・アナトミアの解剖図の正確さを確認し、教科書に必ず載っている日本最初の西洋解剖の翻訳書「解体新書」 を作るきっかけになったという。ちなみに、この地で最後の斬首刑に処せられたのが毒婦の異名で知られるあの高橋お伝であったと延命寺のリーフレットに書いてある。「高橋阿伝夜刃譚」のモデルにもなったお伝の墓は、安政の大獄に関わったとされる吉田松陰、橋本左内や鼠小僧次郎吉、腕の吉三郎などの墓と共にJRガード脇回向院内の墓地の史蹟エリアに並んでいるが、最近では日本のプロレス創生期にアントニオ猪木らを厳しく鍛え「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチの墓も史蹟エリアに祀られている。延命地蔵 (地蔵菩薩) 、またの名を“首切り地蔵”と呼ばれる高さ3.6㍍の座像は、山谷地域の中心点である、「泪橋交差点」からは北へ300㍍の東京メトロ日比谷線の南改札の前ある「延命寺」の中に入れば誰でも見ることが出来る。フランスのガイドブックにこの首切り地蔵が紹介されているせいか時たま外国人旅行者がカメラを向けているとことを見掛ける。この大きな地蔵は、27個の花崗岩の寄せ石作りの像で、元は南千住の貨物線の南側辺りにあったものを、明治28年 (1895年) 鉄道敷設工事の際に現在の地下鉄日比谷線とJR常磐線のガードの間に移された。江戸の時代に受刑者の菩薩を弔うためこの地蔵菩薩が造立されたということだが、先の東日本大地震の時には地蔵の左手が落ち、胴の部分の寄せ石が大きくずれ、大きな余震で倒壊する恐れがあった。その時は荒川区指定文化財でもあるこの地蔵菩薩を重機で解体、地上の安全な今の位置に下している画像が「修復の寄付募集の掲示板」のところに当時出ていたのを思い出す。
江戸時代には小塚原刑場があり、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場として、明治時代始めに廃止されるまでは、磔(はりつけ)・斬首などが執行されていたとの事。刑場の入口にあった「首切地蔵」は、4メートル近くもあり、刑死者の菩提を弔う為、寛保元年(1741)に建てられました。明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露天や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。この地蔵は、現在も無縁となった人々の霊を静かに見守っているとの事です。
江戸〜明治時代にかけて20万人以上の刑が行われていた刑場跡。腑分けが行われたり、刀などの試験場とされていたといいます。特に資料などが展示されていませんが、荒川ふるさと文化館で不定期に首切り刀などの資料が公開されるそうです。
素敵なお顔の体の大きな地蔵尊で、綺麗に清掃されていました。この地蔵尊は江戸時代から明治の始めまで江戸近郊において、はりつけや獄門、火罪、斬罪などを行うお仕置き場として20万人もが処刑され、その刑死者や無縁仏を弔うために建てられたとのこと。JR南千住駅西口を出て左手を線路に沿って真っ直ぐ歩くと2分程で到着します。約4mの高さで27個の寄せ石作り、2011年の東日本大地震により左腕が落ちたり胴体がずれたりし荒川区で第一期修復工場実施とある。
毎月24日はお地蔵さんの縁日だ。頃やあたかも日曜日。どこかお地蔵さんに行こうかな。パッと思いつくのは巣鴨(さすが、刷り込みが行き届いてる)。でも混んでるだろうな、パス。六地蔵という手もあるな。品川、新宿、とね。でもどちらも行ったことあるしな。おぉ、首切り地藏があるではないか、小塚原のが。そうだ、それがいいや。という次第でGo!三ノ輪を起点にアラーキー生家跡から浄閑寺、線路沿いに歩いてゆくと何やらいい匂いが...おぉここは鰻の名店、尾花ではないか! 確かここは澁澤龍彦さんも(ですら、かな)訪れたのだったかな。確か「ブリキの太鼓」だったかを観た後、わざわざ繰り出していったのではなかったかな。何でブリキの太鼓で鰻につながるんじゃい、ってのは龍彦さんのエッセイを読んで下さい(題を忘れて申し訳ないのですが)。そんな尾花の軒先をかすめて六菖十菊の鰻香を味わいつつ、まずは回向院。松陰の墓石が黒ずんでいるのは手向けの線香のゆえか、はたまた逆光ゆえの錯覚か。オモテに刻まれた「松陰二十一回猛士」の字は本人の手跡だったかな。いずれにせよさすがだな、長州。彼の墳墓は結局若林に移されたのではなかったか。郷土の先達の顕彰、その故地を聖地化と、まことに間然するところがない。さて首切り地藏だが、回向院にはいない。ここも刑場の敷地内だったかもしれないが、そこにはいない。JRの線路を越えたちょいと先のこの寺に鎮坐している。それも近代の鉄道敷設などで移動があったらしいが。この巨大な石像を初めて見たのは、もう半世紀に近い昔。草加に住む親戚を訪ねるため地下鉄に乗ると、三ノ輪を過ぎた辺りでやおら地上に出て視界が明るくなった途端にこの像が目に入るのだ。幼心にはその巨大さが異様に感じ印象に残った。父にそこがコヅカッパラの仕置場跡だと教わった。コヅカッパラというリズミカルな地名が、これまた印象的であった。だがそれ以降も、電車から眺めるばかりで、眼前に仰ぐ機会はなかった。だがさまざまな本で、画像は見ていた。高架線に挟まれた一角、巨大な石像がドンと据えられ、その手前にこれまた巨大な髭題目の碑が立っている。髭題目の石碑は、京浜急行の、これまた車内から見える鈴ヶ森にもある。元禄期だったかに、篤志家が各地の仕置場に建立したのだそうだ。一体いくつ建てたのだろう。相当なモノイリだったのには違いない。そんな次第で題目碑があるから、ここは法華の寺だとばかり思っていたが、実際境内に入ってみてビックリ! 月影杏葉紋が... 実は念仏寺だった。いやぁ行ってみないとわからないものですね。そして好きですよ、こういう宗派混淆ぐあい。さて首切り地蔵。十分に巨大でしたね。土台も人の丈ほどもあろうか。もう仰ぎ見るほどだ。今日は7月24日、こじつければ地蔵盆だ。風も孟夏とも違う感じがする。雲でさえ、だ。あぁ季節も歳月も、流れてゆくのだなぁ。お地蔵さん、命あらばまた会おうな。
本で知りました、首切地蔵は大きいためにいくつかの部分に分けられ制作され、現地で組み立てられた。以下引用ですが、「小塚原刑場史」の著者黄木土也氏は『石地蔵 ぬい上ケをした 小づか原』という川柳を紹介し、『ぬい上ケをした 』には別の意味が込められているとみると言っている。それは、刑場で亡くなった死者の遺体を複数回試し切りに供するために非人にたちによって縫合された。その縫合部をお地蔵様の接合部に見立て揶揄している・・とあった。とにかくここに埋葬されたすべての方々の成仏をお祈りしました。
お彼岸だったのでお寺の人や檀家の人がいて普通のお寺のようだった。ただ過去の歴史を知ってしまうと戦慄を感ぜずにはいられない。このお地蔵様の独特の色合いと表情といったらなんだろう、世の儚さ人生の空虚さが伝わってくる。
小塚原刑場の跡です。江戸時代に存在した大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と云われています。明治初期には、人道上の問題より新政府によって廃止されました。しかし、創設から廃止までの間、およそ20万人以上の罪人に対して、磔、斬罪、獄門等の刑が執行されたそうです。死体は荼毘もされず、土を被せる程度のお粗末な扱い。夏には辺りに死臭がたちこめ、野犬などの動物が死体を漁り、地獄の様な有様だったそうです。この大きな「首切り地蔵」は高さ、およそ3m。刑死者の冥福を祈るために、1741年(寛保元年)に建てられたと云われています。ちなみに2011年の大地震の際、巷の噂では「首が落ちた」と聞いたのですが・・・それは「首切り地蔵」の名から来る先入観で流布したガセです。実際は左腕の落下と胴体部が大きくズレたとの事。当時修復に600万円ほどかかると言われ、私も気持ち寄付をいたしました。直って良かったですね(笑)
名前 |
浄土宗 豊国山 延命寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3807-0897 |
住所 |
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HP |
https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/minamisenju003.html |
評価 |
3.9 |
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この地には刑場・小塚原刑場があり、江戸時代から1873年の刑場の廃止まで20万人以上が処刑されたと言われています。刑死者の亡骸は軽く土をかぶせた程度の処理しかなされず、野良犬や虫が湧いて陰惨な有様だったそうです。1741年に大きな地蔵が建てられ、刑に処された人々を弔っています。かつては隣接する回向院の一部でしたが、常磐線で分断されて飛び地になっていました。1982年に飛び地部分が延命寺として分離して今に至ります。