歴史の舞台、高取城攻防戦。
司馬遼太郎の『おお、大砲』の題材となった、文久三年(1863年)の天誅組と高取藩による高取城攻防戦があった場所です。現在は高取町文化センター前に石碑と案内板がひっそりとあるのみです。この辺りは高台で西側が非常に良く見渡せる地形となっています。高取藩はここに陣地を構えて大砲を据え、國府神社にも陣地を構築するなどして、二重三重にも防衛線を引いたそうです。天誅組は十津川郷士と糾合し、重阪峠(御所市大字重阪)〜戸毛村(御所市大字戸毛)〜木の辻(高取町大字薩摩)と約1000名の縦列編制で侵攻。対する高取藩兵は総勢約150名。地の利があると言えども兵力差は歴然。頼みの綱は鉄砲と、大坂の陣で使われた後に高取藩主植村家に下賜された大昔の遺物であるブリキトースと呼ばれる大砲。しかし、天誅組は烏合の衆であった為か、開戦すると大砲に怯んで右往左往する始末。縦列編制という愚も手伝ってなす術なく敗退、戦い自体はおよそ一時間ほど、高取藩側の圧勝で終わりました。天誅組が用意していた松の木をくり抜いた木砲も不発だったそうです。敗報を聞いた吉村虎太郎は決死隊を編制、夜陰に乗じて高取城の火攻を企図するも、木の辻まで来たところで高取藩の斥候で出ていた浦野七兵衛と遭遇、槍で渡り合っていたところを味方の十津川郷士の猟銃による誤射で内股を射抜かれて歩行不能となり、以後は駕籠での移動となりました。この時虎太郎が着ていた“盡忠報國”と書かれた肌襦袢が当時銃創の手当てをした重阪の西尾家に伝わっており、後年徳富蘇峰が認めた箱書きとともに御所市指定の文化財となっています。
名前 |
鳥ヶ峯古戦場跡(天誅組ゆかり) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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御所方向より進軍してきたのを察知しここに大砲鉄砲などで待ち伏せ。100mくらいまで近づいてきたところで一斉射撃。近隣に隠れていた地元民の太鼓音、法螺貝、トキの声なども相まって天誅組は大混乱に陥り戦闘どころではなくなり敗走。近くの林に逃げ込んだ兵には潜んでいた高取藩士の槍隊が攻撃。天誅組の人数は約1000人と規模が大きかったが休憩無しの行軍、郷兵ではあるが訓練もろくに受けていない、進んで来た道が細長く反撃しにくいなどのことも大きな敗因であった。