奇跡の保存状態!
新田荘遺跡(江田館跡)・上江田城の特徴
鎌倉時代から戦国時代に使われた中世の城跡です。
空堀と土塁が残る保存状態が素晴らしい居館跡です。
桜の花が美しく咲き、訪れる人々を魅了します。
折れのある土塁♬堀♬虎口土橋♬が見れた復元図付きの説明板がある隣近所の館跡にも土塁&堀がのこっていた。
貞義公の鎌倉攻めで活躍し、京へも行を共にしたが、以後は世を忍んで帰農、改姓して備後(広島)に住み、江戸期になって、10代目が再移住した…と言う新田一族の江田行義公の館跡と伝わる…。この館は、時代が下ってからもしばしば使われたらしい。まず、夏草に覆われた本郭跡を何回も眺め回し、つぎに土塁の上を左回りに一周し、最後に空堀の中を右回りに一周…。郭も広く、土塁も高く、空堀も深くはっきりと残されていて、特に、2カ所ある空堀の折れが素晴らしい。土塁の上にズラリ並んだ大木群も強く印象に残る。猛暑続きの夏の終わりを告げるように、本郭跡に曼殊沙華が一輪だけ咲き始めていたが…やがて一面が真っ赤に染まるのだろうか…歴史の醍醐味に浸る。説明板、🅿️あり。2025/9/16
堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。南辺と東辺の二箇所では堀が切れ、虎口が造られています。鎌倉時代(AD1185–AD1333)から南北朝時代(AD1337~AD1392)の築造と推定されます。南北朝時代の館主、江田行義は惣領家である新田義貞に従い、元弘3年(1333)に義貞が鎌倉幕府討幕へ挙兵すると鎌倉へ従軍しました。同年鎌倉幕府は滅亡しました。天正年間に小田原北条氏の侵攻により江田館はあえなく落城しました。
桜が綺麗でした。跡なので何にもありませんが、説明文見て歴史を感じることができます。あたり一体の史跡が広範囲に色々関連しているので面白い。
史跡としての観光価値は、応分の知識と研究対象であるかどうかにより異なってくるでしょう。私にはそのいずれも備わっていないので史跡の価値を正確に表現できません。源氏が関東に根を下ろした時代の平均的な屋敷のサイズ感を感じたぐらいかもしれません。なおこちらは本当に住宅街の中にあり、かつ史跡整備も表面的な部分に限られており、車でしか行けないにも関わらず駐車場がありません。※私は案内板前のスペースに一瞬だけ止めましたが‥
2022/10/10まさかの素晴らしい保存状態に感動。折れがあることからも北条氏管理時期に北条氏によって改修されたに違いない。住宅地の中でよくぞここまで遺ったものである。
鎌倉時代から戦国時代にかけて使われた方形居館跡が残っています。立派な土塁が残り、きれいに整備されている。駐車スペースは2,3台分あります。
館跡の空堀があるだけで、中央部分には何もありません。公園のようです。駐車場も特になく、館跡の案内板の前に砂利が空いてあって車が停められます。見た感じゲートボールとかソフトボールとかするような感じの公園のようになっています。
読み・・・えだやかた所在地・・・群馬県太田市新田上江田町(旧新田町)別称・・・江田城築城年・・・1210年頃築城者・・・江田頼有主な城主・・・江田氏、矢内四郎左衛門江田館は、江田行義の館と伝えられている。江田行義は新田一族で、新田義貞の鎌倉北条征伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてた。戦国時代になると、江田館は反町館とともに金山城の支城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛門の居城となった。1584年、北条氏が金山城を攻める際、北条氏は江田館を奪い、金山城攻撃の拠点とした。1590年に北条氏が滅亡すると、江田館は廃城となる。
| 名前 |
新田荘遺跡(江田館跡)・上江田城 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/nittabunka3.html |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
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奇跡的に保存された、新田氏支族、江田氏の館跡。空堀、土塁が見事に残されており、地域の住民、江田氏の末裔の方々の努力の賜物と敬服しました。なお、夏は背の高い雑草に覆われるので、晩秋から初春くらいが見学のベストシーズンです。