玉村町の例幣使街道の魅力。
五料関所跡の特徴
五料関所跡は例幣使街道の唯一の関所跡です。
玉村町で町史跡に指定された歴史的な場所です。
五料の渡しは東西交通の要衝として知られています。
五料関所跡の井戸は例幣使街道が土手の道に出た辺りにある。門の沓石は道ひとつ向こう。
玉村町教育委員会の案内板と門の沓石があるだけ、井戸跡もあるようですが私には見つかりません。
玉村町で町史跡に指定されている。五料関所は、五料宿の東端の利根川に臨むこの場所設けられた。1764年以来の道中奉行管轄の街道として、重視された渡船場だそうだ。五料関所の改め(入鉄炮出女)は、武具の検閲は厳しくなく、他方女性の通行改めは厳重であったそうだ。
柱の跡だけだ。
例幣使街道唯一の関所跡。五料橋右岸脇から行けます。街道の面影がわずかに残っています。案内板はわかりづらいため、簡易郵便局から川に向かって少し進んだ左手の民家脇にあります。
跡地のポールのみ。
玉村宿から日光例幣使道を進んでいくと、利根川を渡る前に、五料の関所を通らなければなりませんでした。ここは日光例幣使道でただ一つの関所であり、元和2年(1616)に設けられた、近世としては全国で2番目に古い関所です。ここでは「入鉄砲出女」の取り締まりや、利根川を上下する船の監視が行われました。今は2つの門柱の礎石と、古井戸が残っているだけです。……………………………………………………………………………………玉村町は、玉村宿・五料宿と五料の関所がある日光例幣使道の他に、南北には三国街道に出る佐渡奉行街道が通るという、交通の要所だったのです。……………………………………………………………………………………
玉村宿から日光例幣使道を進んでいくと、利根川を渡る前に、五料の関所を通らなければなりませんでした。ここは日光例幣使道でただ一つの関所であり、元和2年(1616)に設けられた、近世としては全国で2番目に古い関所です。ここでは「入鉄砲出女」の取り締まりや、利根川を上下する船の監視が行われました。今は2つの門柱の礎石と、古井戸が残っているだけです。…………………………………………………………………………………… 玉村町は、玉村宿・五料宿と五料の関所がある日光例幣使道の他に、南北には三国街道に出る佐渡奉行街道が通るという、交通の要所だったのです。……………………………………………………………………………………
日光例幣使道に置かれた唯一の関所。門柱の礎石と古井戸が残っている。
名前 |
五料関所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.3 |
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五料関所五料の渡しは東西交通の要衝であった。戦国期には那波氏の家臣でこの附近を領していた石倉氏が、関所を設け開銭を取っていた。 慶長六年(一六〇一)厩橋藩(前橋藩)主が平岩親吉から酒井忠重に 移ると五料に関所を設けた。 元和二年(一六一六)八月に幕府公認の関所となったが、更に元禄十年(一六九七)再び幕府の指定をうけている。しかし関所の管理は、明治元年廃関まで前橋藩が管理をしていた。 正保三年(一六四六)から恒例となった、日光東照宮への奉幣使の通路であり、例幣使道の唯一ヶ所の関所であった。 五料の関所は、日光例幣使の通行と舟運の取締りが、特別に課せられ た任務といえる。特に登り船(江戸方面に向う船)については、 禁制品(鉄砲・鉛・焔硝・硫黄等)が、積込まれていないか船中を改め、 不審の点がなければ、船問屋から手形(請書)を提出させて出船を許した。天明三年(一七八三)七月の浅間山噴火は、沿岸に大きな災害を与え た。地元の沼之上村も泥押しの被害にあい、関所全部が泥で埋り建物の屋根だけが見えるだけであると報告している。 その後天明六年(一七八六)七月の洪水、文政十年(一八二七) 三月の火災等の際にも、関所は被害をうけている。玉村宿方面から来ると例幣使道筋からの門から入り、河原の船付場に向う門から出て、 渡し船に乗るような構造になっている。現在遺構としては、玉村宿方面からの門の沓石と、関所用の井戸だけである。昭和六十年六月玉村町教育委員会。