身馴川の辺りに眠る歴史。
富士浅間神社の特徴
富士山神社(里宮)は歴史的な御祭神が祀られています。
元田の位置は身馴川が流れる美しい農業地域です。
旧村社格であり、地域に根付いた神社です。
旧村社。創建不詳。御由緒書きには、境内の背後には浅間山と呼ばれる標高280mの山がそびえており、この山上の奥宮には、当社から約50分ほどの道のりで参詣することができる。創建の経緯については明らかではないが、『児玉郡誌』は「往古より字富士山の絶頂に勧請し、元田・高柳の両村の住民深く之を尊敬せり。以下省略」とあり、社殿は江戸時代に建築とありますが、浅間神社の山岳信仰は奥宮もある事ですし、ここにある立派な社殿は江戸時代の建築であれ、往古からの信仰は、往古であり、ここの土地が鎌倉時代にはすでに開けていて、「元田の板石塔婆」など存在することから、それなりの往古の創建であることが想像されます。社殿にそっと置いてある、富士山神社奥宮参拝の絵図面が、絵心のある作品になっていて、ついつい奥宮まで参拝したくなりますが(よく見ると頂上が319mで、山頂まで30分になっています)、奥宮への登山道入り口にある浅間神社までは小刻みな石段を上り参拝しましたが、その先はもう草藪が深くて御遠慮させていただきました。尚、富士浅間神社へ向かう坂を上り始めた途中に、鎌倉時代の歴史資料「元田の板石塔婆」(県指定文化財)がありました。
旧村社格。ここから30分ほどの山頂に奥宮として富士山神社(現地案内板表記。Googleマップ的には浅間神社?)がある。なお、2017年5月上旬現在、ここから西の琴平神社までは車両通行不能。徒歩でも通行困難。
名前 |
富士浅間神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.0 |
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富士山神社(里宮)御祭神 木花咲耶姫命御縁起(歴史)元田は、山間を蛇行しながら流れて来た身馴川(小山川)が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域です。その地内にある埼玉県指定文化財、正嘉二年(1258)銘の板石塔婆は、三基の塔婆を一枚の石に刻み込んだ特異な様式です。当地周辺で入り組んでいる高柳・河内の両大字によって、元田は南北に分断される形になっています。当社の境内は高柳の地内に属していますが、「風土記稿」元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社です。境内の背後には浅間山と呼ばれる標高280mの山が聳えており、この山上の奥宮には、当社から約50分ほどの道のりで参詣することができます。創建の経緯については明らかではないですが、「児玉郡誌」は「往古より字富士山の絶頂に勧請し、元田・高柳の両村の住民深く之を尊敬せり。例祭日には遠近より参拝者多し、元田よりの参道には中途に随神門あり、徳川時代には真言宗宝冠寺別当職たり、社殿は享保年中(1716~1736)の建築なりと云ふ」と載せています。神仏分離後は宝冠寺から離れ、明治五年(1872)に村社となりました。なお、「児玉郡誌」に載る随神門は、集会所の前にあった仁王門のことと思われますが、老朽化により昭和二十年代初めに取り壊されました。また、集会所の傍らに法印墓石があり、この辺りに宝冠寺があった可能性が高いと考えられています。(境内案内板より)御縁起に書かれている「法印墓石」は、「富士山神社(里宮)」より約70m南東の「元田自治会館」敷地にあります。「富士山神社(里宮)」より北西に約50mほど道沿いに進み、浅間沢側に下りて渡った先の石段を登ると「浅間神社(元宮)」があります。「浅間神社(元宮)」横の山道を登って行くと、山頂に「浅間神社(奥宮)」があります。「富士山神社(里宮)」社殿の縁に、各宮の位置を描いた素朴なタッチの奉納画があります。