武埴安彦ゆかりの地、歴史を感じる。
武埴安彦破斬旧跡の特徴
崇神天皇の御代にまつわる歴史的なエピソードがあります。
武埴安彦が斬首された重要な史跡で伝承が残されています。
いごもりの行事に関連する青竹を焚く場所としても知られています。
案内板などはないですが崇神天皇の御代、四道将軍の一人が北陸へ向かう道中に不吉な歌を歌う少女と出会う。それを倭迹迹日百襲姫命(桃太郎の姉)に占ってもらったところ、武埴安彦命(先々代天皇の息子)の謀反が発覚、クーデターは鎮圧されこの場で斬首されたという。又、近くの祝園神社は武埴安彦命の霊を鎮める為の御霊社が始まりだったとも。同社のいごもり神事が物忌習慣の先駆けとも言われているそうです。何にせよこの土地・日本の歴史にとって大変貴重な史跡であると言える。
崇神天皇に謀反を起こし、大坂から大和へ攻め入ったがこの地で斬首されたという事です。と言ってもかなり古い事ですよ〜
説明板が欲しいなー。
おどろおどろしい歴史というか謂われのある場所です。
口コミ件数ゼロだったのでとりあえず行って見ました。住宅の敷地跡みたいな空き地にポツンと石碑が立っているだけです。歴史とか謂れとかの説明文も一切無くて、どういうものなのかわかりませんでした。
名前 |
武埴安彦破斬旧跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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祝園神社のいごもりの行事が終わった後、そこで使った青竹を焚く場所がここでしたから、後世にここが武埴安彦が斬られた跡だと伝わりました。そして私達の昭和時代になってこの石碑が立てられました。古代、武埴安彦という北大阪の有力者が「大和の国にあるはに土を手に入れたら天下を取れる」という奥さんの吾田媛の予言を受けて平城山まで攻め入り山上で足を踏み「なら」して勢い盛んでしたが、弊羅坂神社のあるあたりで、大和の彦国茸という将軍が不吉な歌を歌う少女の忠告に気付いて兵を整えて、挑川故蹟の碑のあるあたりで武埴安彦と戦い撃破、負けた武埴安彦はこの場所まで敗走して討ち取られ、頭は祝園に、胴体は棚倉に。…木津川市や奈良市の各地で拾った武埴安彦の伝承をつなぎ合わせるとこんな話になります。ここの碑によると祟神帝10年、魏志倭人伝より古い1世紀、弥生時代のお話です。そんな昔ですから、普通なら武埴安彦の存在は伝説だと言われるところです。その武埴安彦の存在を祭礼の形で、各地の人々が2000年間延々と伝えてきたのはすごいことです。