京都の庶民に愛される、手握り寿司。
とみ寿司の特徴
河原町でリーズナブルな江戸前寿司が楽しめます。
カウンター越しに握りたてのお寿司をいただくスタイルです。
明るい気さくな店員さんが温かく迎えてくれるお店です。
昔からある庶民で賑わうお寿司屋です。安いものは安い、時価のものは時価。地元民で賑わってます。お魚も新鮮ですし、焼き魚も味噌汁も、当然お寿司も美味しく、目の前で握ってくれて納得のお値段で楽しめ、狭いですが隣のお客さんにも皆さん気を遣いながら楽しめるお寿司屋さんだと思います。
60年前から親父に連れられてきていた懐かしい寿司屋!さすがに美味しい。値段もそこそこで気楽に食べれます。
気取らない街寿司屋さん。喫煙可ってえのも、酒呑みには、すこぶるありがてぇじゃねえか。品書きにはない「てっきゅう」も巻いてくれるたぁ、さらにうれしいじゃねえか。
京都の夜です。古着屋のお兄ちゃんに聞いたディナーのエリアがよく分からない。こうなったら1人飲み歩きYouTubeをみる。河原町は近くていい所がありそうと嗅ぎつける。江戸前寿司。ありですね。食べログも検索。いいじゃんね。18時頃、飛び込みました。座れます。一貫50円からと破格。ビールスタートです。キンキンなグラス。いいスタートを切れました。老舗感がすごい店内。げそ50円こはだ80円×2さば140円生タコ250円しまあじお造り①1800円ひらめお造り②1800円かいわれ手巻き230円鉄火細巻き640円マグロ山かけ1100円玉子120円お吸いもの(あさり)550円~柚子の皮が効いてるはまち180円途中ビール3杯、レモンサワー2杯くらいいきましてたくさん食べちゃって合計9100円。低価格の握りで楽しめばもっと安くはなったけどついつい欲望が先行。同志社大と京都大のラグビー部の額があって大将っぽいおじいちゃんに聞くと、平尾・大八木世代頃は来てたとの話を聞けて胸熱でした。
久しぶりの訪問!いつも満席のイメージでしたが、この日はすんなりと入店!常連さんが多いのかな?以前のほうが、愛想もよく、活気もあり、美味しかったです!値段は安いイメージでしたが、何か高く感じました!また、機会があれば伺います!
握りのシャリは程よい酸味とふんわりとした口当たりで、ネタとのバランスが絶妙。魚介の鮮度も抜群で、一つ一つのネタが口の中でとろけるような味わいです。店内は和の趣があり、落ち着いた雰囲気でゆっくりと食事を楽しむことができます。
リーズナブルで美味しいお寿司が出てくるお店。
寿司が食べたくて入店。お店の駐車場はなし。テーブル席とカウンター席があります。席にて注文の後会計です。剣先いかのお造りや茶碗蒸し、上にぎりなどを注文。雰囲気の良い大衆寿司屋さんです。お値打ちな値段で職人さんが握る寿司が楽しめます。入ったタイミングが良くすぐに座れましたが、その後はすぐに満席に。ネタはどれも新鮮でしっかりと味もあり、とても美味です。茶碗蒸しも出汁が効いていて美味しかったです。終始良い雰囲気でお酒も楽しむことができました。明朗会計で本格派の美味しいお寿司が食べられるのでオススメです。
美味しく丁寧な仕事っぷり!なのにリーズナブルで提供されます。最高!回るより断然ココ。
| 名前 |
とみ寿司 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
075-231-3628 |
| 営業時間 |
[土日月火水金] 17:00~23:30 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
〒604-8042 京都府京都市中京区新京極通四条上る中之町578−5 |
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【人生最期の食事を求めて】京都人に愛される大衆寿司の気さくさと技。夕刻の河原町を歩いた。 風はなかった。しかし、皮膚の下をなぞるように冷気が忍び込み、体温と意識の境界を曖昧にしていく。京都の冬は、外界から身体に触れるのではない。身体の内側から、静かに形を取る。人の姿はある。だが密度が足りない。 多国籍の観光客が集うはずのこの一帯に、微かな空白が生じていた。欠けたものは、目に見える存在よりも、はるかに強く知覚される。先斗町に入った。 鴨川と木屋町に挟まれた細道は、かつて身体が芸へと昇華される場所であった。欲望は様式に包まれ、感情は沈黙のうちに制御される。今も提灯は灯っているが、その光はどこか表皮的で、内奥に触れる力を失っているように見えた。新京極商店街へ抜けた。 信仰の導線上に築かれたこの通りは、祈りと消費が同時に成立する京都特有の平面である。人々は歩き、立ち止まり、また流れる。その運動は活発でありながら、どこか無感覚だ。 私は裏寺町通へ折れ、さらに柳小路へと身を滑らせた。柳小路は、都市が余剰として残した細道であり、過剰なものが削ぎ落とされた結果としての静けさがある。この辺りは、京都に来る度にほとんど無意識に歩いている。『とみ寿司』という店も、その反復の中で、静かに輪郭を持ち続けてきた。声高に自己を主張しない店は、長い時間の中でかえって強度を得る。17時を少し過ぎ、暖簾をくぐった。 予約を誇示するでもなく、選ばれることを強要もしない。店内は簡素で、光は柔らかく、音は抑えられている。寿司という形式が、必要最小限の緊張だけを保って存在していた。生ビールを頼み、刺身をお任せにすることにした。 気さくな大将の京都弁は、湿度を含みながらも粘らない。言葉は、こちらの耳元でほどけ、すぐに消えた。最初に置かれた「かんぱち」は、濡れたような艶を保っていた。 醤油をわずかに含ませ、口に運ぶ。歯が触れる前に、身は崩れ、舌の上で温度を失っていく。甘みは遅れて現れ、喉を過ぎたあとに、名残りのように残った。続く「生たこ」には、塩が添えられた。噛むと、柔らかさの奥からしなやかな抵抗が立ち上がる。舌と歯の間で、たこは一瞬、自己を主張し、それから静かに従うのだった。「ひらめ」はもちろん淡白なのだが、その無垢さがかえって欲を誘う。生ビールを飲み干すと、身体の内側がゆっくりと緩んだ。「うなぎ、どうですか」 差し出された蒲焼きは、脂は均され、身は柔らかい。関西の地焼きが力を誇示しながらも、焼きの抑制によって官能を得ていて、箸を入れると、身は抵抗なく割れ舌の上で形を失った。後続の「いか」は、角がなく、どこか人懐こい印象である。北国の鋭さはないものの、口中にどこかまろやかな風味を残し続けた。周囲の客が「きゅうり」を頼んでいるのが目に入った。 名物とは、特別であることより、繰り返されることによって身体に馴染むものだ。 供されたきゅうりは、精密に刻まれ、目の前で蛇腹のように広げられた。もろみを添え、箸を入れると、驚くほど容易く切れる。歯を立てた瞬間、青味が弾け、すぐにもろみの発酵香がそれを包み込んだ。日本酒に移りたい衝動が、身体の奥で疼いた。 だが、かつての身体的記憶がそれを制し、私はハイボールを選んび、舌と意識を引き締めした。握りに入った。 「赤貝」を注文した。歯切れと香りが同時に立ち上がり、一瞬で消える。その短さが、かえって印象を深める。迷いを生じる中で、「ひらめ」を選んだ。その握りは、刺身とは異なる緊張を持ち、舌の中央で静かにほどけた。さらに「穴子」を頼んだ。それは、甘みを誇張せず、終わりを延ばさず、余韻だけが身体に残る。まさに穴子の真骨頂である。最後は再びたこの誘惑に駆られ、「煮だこ」を望んだ。 それは、関西らしい過度に色を纏わない炊き加減である。 身はふっくらと艶を帯び、煮含められた痕跡だけが、静かに表面に残っていた。口に含むと、歯がたこを断つというより、たこのほうが先に身をほどいてくる。 噛む毎に、淡い甘みと出汁の気配が立ち上がり、それは決して前に出ることなく、舌の奥で穏やかに広がった。生のたこが一瞬の緊張を孕むとすれば、煮だこは時間を受け入れた味である。 火を通すことによって失われたものよりも、残されたもののほうが、はるかに雄弁であった。しかも、控えめな量が、かえって集中を促す。満腹ではなく、満たされること。その違いを、私は京都人に愛される大衆寿司において、静かに、しかししっかりと記憶に刻んだ。外へ出ると、夜は完全に定着していた。 冷えはさらに深まり、身体の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。 京都の冬は、拒むことも、抱き寄せることもできない。ただ、静かに身を委ねるほかないのかもしれない。……