大和川の歴史を伝える頌徳碑。
西村市郎右衛門頌徳碑の特徴
西村市郎右衛門は、大和川付け替え工事に命をかけた歴史的な人物です。
頌徳碑は大正5年に建立され、昭和45年に移設されました。
無許可で用水路を造り、庄屋を悼む石碑として意義があります。
西村市郎右衛門頌徳碑大和川の付替えに功績の市郎右衛門は 大坂城内にて•••客死そして••一家 断絶•••頌徳碑は郡長深瀬和直の撰並びに✰ ••書で大正5年(1916)に建てられ、その後昭和45年に外環状線の工事に伴い現在地に移転整備された。【弓削村市郎右衛門家相続一件書】•••には初代から五代の間に3人の•••市郎右衛門の名が見える。•また柏原市雁多尾畑光徳寺墓地には•安永4年(1775)の市郎右衛門の墓など一族の墓地があります。••志紀、大正地区では••••以前 旧盆の頃•••念仏踊り(講念仏踊り)を•踊ったがこれ西村市郎右衛門の霊を慰める為だったと言われている🙏
300年前に大和川掛けかえのために、人生をかけた人、掛けかえで田畑への水が引けなくなり、幕府の許可をもらえず、一命を投げ出して水を引いた人。市郎右衛門さんは後者。当時21の農村の田畑を潤せば、いったい何百人の命が救えただろう?(写真2019年4月2日現在)
江戸中期の大和川付け替え工事で河内平野は命をつないだが、反面旧大和川の流域には灌漑用水が不足、枯渇するところが出てきた。特にその年、この地域は大旱魃に見舞われた。農民の困苦を見るに忍びなかった庄屋の西村は独断で新大和川に水路(樋)を開け、稲田に水を引き入れ、危急を脱した。しかし幕府に許可得ることなく水路を開けた西村は大坂城内で斬死、家財は没収、一家断絶の憂目にあう。後世、彼の勇気に感謝した人々は、顕彰碑を建て、彼を讃えた......と説明欄にある。今、碑の周りは鉄柵で囲まれ、まじかで見ることができない。勇者である彼のためにも残念だと思う。
| 名前 |
西村市郎右衛門頌徳碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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旱魃に苦しむ村人のため無許可で用水路を造り、その罪で牢に繋がれた庄屋を悼む石碑。1704年 大和川が現在の流路に付け替えられました。旧流路(今の久宝寺川・長瀬川)沿いの集落は洪水被害から解放され、多くの田畑が新たに開発(鴻池新田など)されました。しかし1714年の水不足には、多くの人々が苦しめられました。弓削村の庄屋 西村市郎右衛門は江戸幕府の許可を待たずに用水路を造り、多くの命を救います。その代わりに無断で用水路を作った罪で、牢に繋がれ一生を終えます。