木津勘助像で感じる大阪の歴史。
木津勘助の像の特徴
大国主神社近くに位置し、目を引く壮大な銅像です。
木津勘助は水運の便と堤防の強化に尽力した偉人です。
本名は中村勘助義久で、江戸時代に生まれました。
立派な銅像だが説明板もなくなり、すっかり忘れ去られたようです。大阪市のページでは、飢饉に際して城の米蔵を破って処罰され、大正の葦島に流されたなどのヨタ話が書いてありますが、それなら地元で流したことにはなりません。実際は常陸国への配流です。一説には十数年後に処刑されたというヨタ話もありますが、それだけ不明なことの多い人物なんでしょうね。
木津川の開拓工事に尽力され、大阪の繁栄の基となる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐなどされた人👦とのこと!
青空をバックに映えます。解説版を読むと大阪の発展に尽力したことがわかります。
1586年、足柄山で生まれた木津勘助は、本名を中村勘助という。20代の頃、木津村に住みつき、土木技師として秀吉に仕えたのち、豊家滅亡後、木津川の治水、堤防作り、勘助島などの新田開発を進めたが、1639年の冷害による飢饉に際し、私財を投じて、村人を救済したが、効果がなく、"蔵破り"をして捕らえられ、葦島に流された。その後も新田開発に従事し、1660年に亡くなった伝説的な英雄で大阪人に崇敬されている。唯専寺(浪速区敷津西)に葬られており、鴎町公園に「勘助橋碑」、上八坂神社にも「中村勘助之碑」があるほか、1922年には新野伊之助が像を建立したが、戦時に供出され、1954年に新野嘉男ら「勘助翁彰徳会」がそれを再建した。24/01/11、おおさか七福神で敷津松之宮や大国主神社をお詣りした際、境内に入ったところで銅像に気づき、説明板を読み、銅像の由来を知った。水の都・大阪の基盤となる事業もさることながら、庶民救済のため、大阪城の米蔵破りを決行するとはなかなかの男っぷりだなあ。
本名を中村勘助といい、天正14年(1586年)相模(神奈川県)で生まれました。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くしました。
大国主神社の近くでひときわ目立つ銅像。
◽アクセス①Ⓜ️御堂筋線/大国町駅/北改札②:徒歩5分②JR環状線/今宮駅/東出口:徒歩10分③南海高野線/今宮戎駅:徒歩12分「敷津松之宮(大国主神社) 境内に所在」◽「木津勘助史跡」巡り▪️本名・中村勘助義久▪️相模国 (神奈川県)足柄山に生る▪️青年の頃より豊臣家に仕え、木津川の開拓工事に尽力し大阪繁栄の基ともなる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐなど、その功績は高く評価されています。◽木津勘助銅像▪️木津勘助像は右手に設計図を持ち手甲脚絆姿で、遠く木津川を望んでいます。◽木津勘助像推移①1922(大正11)年、侠客新野伊之助が建立②戦時中に供出③1954(昭和29)年、新野嘉男氏ら「勘助翁彰徳会」が復元・建立◽墓所・記念碑(顕彰碑)・銅像▪️墓所:唯専寺(浪速区敷津西)▪️勘助橋跡碑:鴎町公園(浪速区敷津西)▪️中村勘助之碑:上八坂神社(大正区)▪️木津勘助像:敷津松之宮(大国主神社)◽折口信夫の歌碑があります。
結構壮大なスケール感のある像です。大黒さんのお参りか近所のライフに買い物のついでにでも。
素敵な、あなたは見てみることができます(原文)不錯的可以來看看。
| 名前 |
木津勘助の像 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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大阪市のHPからの引用ですが豊臣秀吉公に仕え堤防工事や新田開発に尽くされた方です。