静かな住宅街で坂上田村麻呂の歴史を感じる。
坂上田村麻呂の墓の特徴
ひっそりとした住宅街にある坂上田村麻呂の墓は静かな雰囲気です。
彼は朝廷に仕えた著名な征夷大将軍で、歴史的な背景があります。
隣接する勧修小学校から子供たちの声が時折聞こえてきます。
初の征夷大将軍として蝦夷討伐を行なった人物の墓が、こんな住宅地の片すみにあるとは驚き。訪れる人もなく、すぐ横にある忠魂碑の方がはるかに目立つ。
山科地区・中臣遺跡内にある坂上田村麻呂の墓とされている場所です。平安時代に二度も征夷大将軍になった武将で、蝦夷大将・アテルイを捕らえたことで有名です。東北には田村麻呂軍と蝦夷が戦った伝承や、平定祈願として創建した神社や寺院がたくさんあります。公園入口には、明治28年5月建立の碑が建っています。篆書字体で「贈従弐位坂上将軍之墓」とあります。その他本文は薄くなっていて変色があるため非常に読みにくいです。読むのを断念しました。発起人が連名は全員分はっきりと読めます。墳墓前には鎖が付いてます。立入禁止とはありませんから、普通に入っていって手を合わせることができます。茗荷紋が入った新しい墓石には「征夷大将軍 正二位右大臣 坂上田村麻呂公墓」とあります。官位に不一致があります。非常に気になりました。古いお墓ですから、信心深い人は近づき過ぎない方が無難かもしれません。以下、現地にある由緒板の内容。坂上田村麻呂の墓この墓には、平安前期の武将坂上田村麻呂を葬っている。田村麻呂は奈良時代の武将坂上刈田麻呂の子。延暦20年(801)当時の日本では大きな問題になっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。京都にあっても弘仁元年(810)薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。弘仁2年5月23日死去、54才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって、甲冑、剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京に向かって立ったまま葬られた。田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。なお、この墓地は、明治28年平安遷都1100年祭にさいし整備されたものである。 京都市。
桓武天皇に征夷大将軍として仕えていた811年に亡くなり、甲冑兵杖を身につけ立ち姿のまま葬られたと伝えられる墓です。後18世紀の絵図には花山稲荷と共に描かれ、今も田村の森として隣の勧修小学校の校歌に使われ地味に人々の中に入り、田村の森公園として坂上田村麻呂の存在を感じられる場所でした。
大通りから一本入った、ひっそりとした住宅街の中の公園の一角に、かの有名な征夷大将軍である坂の上田村麻呂のお墓があります。え!?こんなところに!もっと絢爛豪華にしつらえたものじゃないの?というくらい意外な感じですが、これはこれで意外なところですごいスポットに出会えたなぁ〜、なんて気分にさせてくれます。
勧修小学校の裏手。小学生から罵声を浴びる覚悟が必要。
日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂の墓が、この様な小さな公園にあるとはちょっと驚きです。石柱と鎖で区画され陵墓内には立ち入れないようになっていますが、公園で遊ぶ小さな子供達はお構いなしに入って行きます。墓石は無く土饅頭と灯篭と石柱だけのシンプルな御墓です。私の住む町の公園には「アテルイ、モレ」の石碑が立っています。二人が処刑された地と言われているからです。戦い合った田村麻呂とアテルイ、共に小さな公園に名を刻んでいます。アテルイの石碑を立てた岩手県の方々は本当はもっと大きな供養塔にしたかったらしいのですが、市か地域の自治会か分かりませんが反対され叶わなかったそうです。替りに選ばれた場所が清水寺です。建立に関わったと言われている田村麻呂との縁だと思います。アテルイの処刑に最後まで反対した田村麻呂。毎年清水寺での供養は本望でしょう。
征夷大将軍 坂上田村麻呂の推定陵墓。平安京守護の為、東を向いて立ったまま埋葬されたらしい。2018年の台風の影響か倒木もありました。
大きな木が切り株になって寂しい限りです。
最初の征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂のお墓。小さな公園に隣接し、ひっそりとお墓と案内があります。都の東の入口にあたるこの地に甲冑を着て立った状態で埋葬されていると伝わっており、死してなお都を守っています。
名前 |
坂上田村麻呂の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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小学校が隣接するため時折子供たちの声が聞こえるがとても閑静。日本史上2人目の征夷大将軍となる坂上田村麻呂の墓所といわれていた場所で、通称 田村の森として親しまれている。永らく坂上田村麻呂の墓所とされてきた場所だが、明治の半ば 平安遷都1100年記念事業の一環として整備されるまでは荒廃していたという。現在では、研究が進み坂上田村麻呂の墓所は西野山古墓が最有力といわれているが、例えそこに田村麻呂が眠っていようがいまいが地元の人たちの間では田村麻呂が慰霊されていることには変わらない。