方丈様の法話が心に響く。
城蹟山 専稱寺の特徴
御朱印がないとのことですが、御城印を頂ける寺院です。
方丈様の法話が心にしみる、貴重な体験ができます。
大阪府高石市の専稱寺で、地域に根ざした魅力を感じました。
いつもの大阪府の地名2より「綾井:あやい」の項目から抜粋します。大阪湾と信太山丘陵との間に広がる平野部で、芦田川左岸、大鳥郡南端に位置する。江戸時代に市場・南出(みので)・大園・新家・土生(はぶ)五ヵ村を綾井村といったが、中世に大園・新家・土生などは取石(とろし)の内であったと考えられるので、中世後期の綾井は、市場・南出付近とみられる。なお江戸中期に泉郡綾井村(現泉大津市)が成立するが、大鳥郡綾井五ヵ村との関係は明らかでない。(中略)綾井城の跡には浄土真宗専稱寺が建立されて山号を城蹟山といった。寺域は土塁と周濠を配した中世の豪族屋敷というにふさわしいものである。戦国時代末には沼間清成(任世と号する)が綾井城主だったといわれ、織田信長の畿内進出後、その被官となり、和泉泉北における触れ頭(かしら)の地位にあって、織田勢の主力として活躍(富田家文書など)した。子義清は天正4年(1576)7月18日、木津川口で石山本願寺を支援する毛利水軍と戦って敗死した。安芸厳島神社には天文21年3月に泉州堺住人綾井九郎左衛門定友が絵師狩野某に描かせて奉納した橋弁慶の絵馬二面が蔵されているが、この綾井定友は綾井出身の堺商人であったと思われる。、とあります。それから、沼間氏について、谷口克弘氏著『信長家臣団事典』をみてみます。任世(にんせい)は、入道号。越後入道という。実名は「清成」とあるが、確かではない。大鳥郡綾井城に住すという。和泉の最有力者松浦肥前守は、天正元年(1573)以前に信長に属しているから、沼間氏も、早めに信長に従っていたのだろう。松浦氏と並ぶ和泉の有力者沼間氏の惣領が任世であった。沼間氏は水軍を持ち、天正4年5月より大坂攻めの主将となった佐久間信盛に属した。だが、同年7月13日の木津川の海戦では、沼間氏ら和泉・摂津の水軍が毛利水軍に大敗し、任世の一族の多くが戦死した。以後も、信盛の下に大坂攻めを続ける。天正9年2月の馬揃えに、和泉衆として参加。この頃は、岸和田城将蜂屋頼隆の指揮下にあったか。子孫は、江戸幕府の幕臣として存続した。、とあります。100年前頃(明治から大正時代)の地図を見ると、地形的には別の城もあったのかもしれません。地域の触頭的地位を持っていた人物の「守り」としては、この立地と大きさでは不十分な気もします。古地図での専稱寺(綾井城)の位置は、綾井集落の北西端にある卍の記号のところです。
方丈様の法話が心にしみます。
名前 |
城蹟山 専稱寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
072-261-1890 |
住所 |
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HP |
https://mai-ru.jp/shrines_and_temples/shrines_and_temples-1839/ |
評価 |
3.5 |
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御朱印と御城印を頂きに参りましたが御朱印はないそうです。