船岡山で織田信長を感じる。
建勲神社の特徴
絶景が広がる船岡山の山頂に鎮座する神社です。
織田信長を祀った歴史深い神社で有名です。
刀剣神社としての注目度も高まっております。
金閣寺を通り過ぎてしばらく下り坂になる北大路通りを少し進むとあります‼️天下統一を夢見た織田信長を祀った建勲神社があります。<戦国の世>今から約450年前、16世紀後半の日本は室町幕府の力が衰え、各地に群雄が割拠し戦乱が絶えない戦国時代のまっただ中にありました。世は兵乱の巷、一大修羅場と化し、京都の町も絶えず兵火に襲われて市街の大半は焼け野原となり人心は荒みに荒んでいました。京都御所も荒廃し、宮中の儀式も満足に行うことができず皇室の式微も正親町天皇の御代にはその極に達しました。なれや知る都は野辺の夕ひばり あがるを見ても落つる涙は(飯尾彦六左衛門)<信長公の天下統一>天文3年尾張南部で勢力を拡大しつつあった織田信秀の嫡男として生まれた織田信長公は、永禄2年尾張をほぼ統一し、永禄3年5月駿河の今川義元を桶狭間の戦いに倒し、天下統一の大志を抱いて立ち上がりました。(京都の再興)永禄10年稲葉山城を攻略し美濃を平定した信長公は、永禄11年正親町天皇の勅命を拝して京都に上り、皇居の修理に着手し、宮中が収入面で困らないように財政措置を講じるとともに市民の賦税を免じて京都の再興に尽力されました。(軍事政策)信長公は天下統一という理想をともに奉ずる多くの人材を身分の上下、出身地のいかんを問わず抜擢し、兵農分離によって職業軍人制度を導入し、鉄砲の改良・量産や大砲を備えた大型軍船の建造など技術開発にも努め機動性に富む強力な軍団を作り上げました。元亀元年には姉川の戦いにて浅井・朝倉両氏を破り、天正3年長篠の戦いでは武田勝頼に大勝するなど各地を平定していかれました。(経済政策)新たに勢力圏内に収めた地域では楽市楽座、関所の撤廃、街道の整備、貨幣制度の整備などにより自由競争を促進し物資の流通をさかんにして商工業の発展に力を注ぎました。その後江戸時代の日本ではさらに街道整備が進み人馬物資の往来が活発に行われるようになりますが、信長公の経済政策は江戸時代さらには現代日本の経済発展にもつながる先駆的な政策であったといえます。(政教分離)また世俗化し武装して政治介入していた仏教勢力に対し比叡山延暦寺の焼討ち、各地の一向一揆鎮圧、石山本願寺との和議等を通じて政治力・軍事力を奪い政治と宗教を分離するという難事業をほぼ完成させました。政治と宗教の分離は近代国家成立の前提となるものですが、ヨーロッパで政治と宗教の分離が進められるようになったのは16-17世紀の宗教戦争以降のことであり、信長公の先見性・先進性がよくわかります。(外交政策)16世紀の世界は大航海時代と呼ばれ、ポルトガルやスペインが世界各地を植民地化していった時代でした。日本にも1543年に鉄砲が伝来し、1549年にキリスト教が伝えられ、16世紀後半にはポルトガルの商船が頻繁に来航するようになっていました。信長公は、永禄12年に初めてキリスト教の宣教師と面会すると、以後南蛮寺やセミナリヨの建設を許可するなどキリスト教を保護し、また宣教師を通じて科学的知識を吸収し世界情勢を把握する一方で、宣教師とは距離を保ち、彼らに依存することなく独自に経済力軍事力を強化して天下統一を進め、日本の植民地化を未然に防ぎました。(その他)信長公は南蛮文化を摂取する一方、能・茶の湯・囲碁・馬術・鷹狩・相撲等を奨励して人心の安定に尽力されました。また石清水八幡宮や熱田神宮を修復し、長く途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮にも着手されました。<偉大な御事跡>このようにして信長公は戦国時代に終止符を打ち、日本統一の道筋をつけ、民衆を疲弊絶望から救い、消滅しかけていた伝統文化に躍動の美を与え、遠くヨーロッパ文明に着目し、日本を取り巻く世界情勢を的確に把握し富国強兵に努め、日本の歴史を中世の混乱から近代の黎明へと導かれました。信長公は平和で豊かな世の中を創り上げるために、既存の概念にとらわれず大局的な見地に立って確固たる信念のもと、行き詰った旧来の政治・社会秩序・腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民全体の日本を敬神尊皇の理念のもとに追求されました。実に信長公の卓越した見識と果断な実行力がなければ、日本の近代化は大きく遅れることになったでありましょう。しかし惜しいことに信長公の偉業は天正10年6月2日未明、本能寺の変により中道にして倒れたのであります。<秀吉による大法要>豊臣秀吉は主君の凶報を耳にし直ちに山崎の戦によって明智光秀を討ち、紫野の大徳寺において7日間の盛大な大法要を営みました。さらに信長公の霊をなぐさめるために船岡山に寺を建立し信長像を安置しようとして正親町天皇より天正寺の寺号を賜りました。しかし寺の竣工は中途に終わり、その後船岡山は信長公の霊地として大切に保護され明治維新に至りました。<明治天皇による神社創建>明治2年、明治天皇より戦国乱世において天下統一、朝儀復興などの事業を進めた信長公の御偉勲に対し特に神社創立の宣下がありました。明治3年「建勲」の神号を賜り、明治8年別格官幣社に列せられ、社地を船岡山に賜りました。明治13年、社殿を新たに造営し、御嫡子信忠卿を配祀し、明治43年本殿以下諸舎を山麓から山上の現在の社地に移建しました。以来、稀代の英雄織田信長公の正気芳魂は、国家安泰・万民安堵の神としてこの船岡山の山上に鎮り給います。【令和6年9月29日】再訪。
京都で学生時代を過ごしたのに、こんな場所があるなんて知りませんでした。大文字焼きの山や比叡山、市街地を眺められて感動しました。
階段の先に絶景が広がる神社船岡山の上にある、階段を登らなければならない神社ですが、階段を登った先で振り振り返るとそこに絶景が広がっているので是非ともがんばって参拝してほしい神社です。境内は岡の上という事もあり喧騒からは離れて静かにゆっくりと過ごせます。また、宮司さんの話が面白いです。御朱印は直書きの物もあります。私は別の目的で参拝しましたが、とうらぶの聖地だとは知りませんでした。御朱印は刀剣関連の物もあって楽しかったです。エンタメ性もありつつ厳格さも併せ持つ、織田信長公が御祭神というのもなんだか納得がいく神社でした。
22年12月19日に訪れました。大鳥居をくぐり、義照稲荷社、稲荷命婦元宮を参拝しました。そして『建勲神社』のご本殿へ行きました。『建勲神社』は本能寺の変のあと、豊臣秀吉が船岡山を織田信長の霊地と定めたことがはじまりです。明治2年(1869年)、明治天皇の命により織田信長を祭神とした神社を創建しました。織田信長は「建勲(たけいさお)」の神号を賜りました。拝殿の中には武将の絵が掲げられていました。また祓串が置いてあり、左右左と祓串を振りお祓いをしてから参拝しました。祓串を自分で振ってお祓いをするのははじめてでした。
地元の人は「けんくんじんじゃ」と言います。市バスの案内も「けんくんじんじゃ」と言います。しかし正式名称は「たけいさおじんじゃ」だそうです。春は桜がとてもきれいです。秋は紅葉がきれいです。船岡山と繋がっているので軽い運動がてら登るも良いと思う。
急な階段を登り参拝させていただきました。織田信長公を祀っているそうです。綺麗な本殿と景色は心安らぎます。参道は階段と坂があります。北参道は坂道です。
京都に船岡山という標高100mちょっとの山があって、その山頂にある神社です。明治時代に創建され、織田信長公を祀(まつ)っています。桶狭間の合戦出陣に際し、織田信長公が舞を舞った一節が石碑に刻まれています。拝殿のある山頂エリアから東を向くと、東山三十六峰の美しい山並みを眺望することができます。船岡山は公園になっていて公園の方もぶらっと歩きましたが、市民の方が散歩やジョギングなどしていました。(訪問:2022-08-31)
今日5月19日は桶狭間って言われてそういえば、何も考えずに行くとビックリな事が多々おきます、昨日は秀吉の月命日って覚えてて、でも私の誕生日だったのに忘れてました(汗)、信長さんと秀吉さんにからかわれた2日間でした。御朱印書いて頂いた神職さんも巻き込んでハプニングの連続でした。だからこそ忘れられない神社となるわけです(笑)神職さん、楽しいお話ありがとうございました。天下布武の御朱印は大事な思い出になりましたよ。
船岡山にある建勲神社、刀剣神社としても最近は有名になってきてる。応仁の乱の際こちらに陣をはったことからこの界隈を西陣と呼ぶようになったみたいです。
名前 |
建勲神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-451-0170 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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御朱印頂きました。某刀剣ファンの方がチラホラ。授与品もカッコいい物が多かったです。散策にはいい場所かもですね。近くに住んでる方は羨ましいや。