心が落ち着く神波多神社。
神波多神社の特徴
神波多神社は素戔嗚尊を主祭神とする伝統的な神社です。
敷地内には善明院というお寺も併設されています。
文化財があり、故郷の人々に愛される神社です。
小さな神社⛩️ですが同じ敷地に善明院という御寺もあるように見えますが実際はどうなんでしょうかね?
神波多神社(かみはた) 式内社所在 奈良県山野辺郡山添村峰山御祭神 素戔嗚尊(牛頭天王)、春日大神、櫛稲田姫命『延喜式』に記載の、機内の境界の十か所に祀った疫神が当社。つまりここが、畿内と機外の境界だったわけですが、その根拠は不明です。東に行くとすぐに名張川があるので、その街道を見守るには都合のよい要所であったとも言えます。十か所の疫神の中で式内社はここだけなので、この地の持つ意味は特に大きいと言えます。当神社のアクセスは二つ考えられます。一つは神社の背後から境内まで登る車道を行く道。もう一つは国道25号から階段で上がる道。他の方の口コミを見て、裏の道は狭そうなので正面から入ることにしました。国道25号から境内に向かって幅の広い階段が伸びています。路側帯に1台ほど車が停められます。階段下に由緒書きがありますので、これをじっくり読んでから登っていきます。階段を登りきると、広い境内に出ます。かなり広くて平面の土地なのでここが山上であることを忘れるほどです。まず正面に見えるのがお寺で、左手に社殿や杉の大木が見えます。拝殿の入口は見えません。一段高くなった石垣の上に本殿の屋根が見えます。左手に進み、南に間口を広げた拝殿の前に立ちます。正面の天井に二枚の神額が架かっていて、「牛頭天王」と読めます。どうやら御祭神が牛頭天王だった時代もあるようです。これも防疫の神です。本殿は、檜皮葺の流造でかなり大型のものですが、全容はほとんど拝むことができません。たいてい拝殿を横に回り込むと本殿が見えるのですが、こちらは中々ガードが固い。本殿の壁面には、昔話に出てくる牛の絵があるそうです。あきらめて拝殿から下がりさらに左に向かうと、小さな境内社が並ぶ一角に出ます。猿田彦神社、住吉明神、熊野神社、稲荷神社などの他に、山神の石碑もあります。ここを参りながら、本殿裏をぐるっと回って寺の前に出ます。寺は真言宗の「善明院」と号し、おそらく神宮寺だったと思います。再び、本殿の東側に戻ります。ちょっと違和感がありますが、神波多神社本殿の背後に八社神社と六社神社が東を向いて並列に並んでいます。たくさんの神様を祀るためか社殿はかなり立派なものです。そろそろ帰ろうと階段へ向かうと、左手の参集殿のような建物にたくさんの絵馬が掛けられているのが目に留まりました。素晴らしい境内の建築物などに目を奪われ気づきませんでしたが、階段に一番近いところに新しい絵馬の額があり、「祈願コロナ回復」の願いが描かれていました。コロナをどのように表現すればよいのか、作者(寄贈者)は悩まれたと思います。この神波多神社が疫神であるだけにその責任は重大で、その絵を見ていると、お気持ちが十分に伝わりました。今度来るときには、感染症が収まっていることを祈りました。2021年6月10日参拝。
私が生まれた故郷の神波多神社は、文化財もある神社でお参りすると心が落着くから…皆さん是非お参りください。
伝承によると、名張川に釜渕という場所があり、そこに釜石が岩がある。川の水量が少ない時に、その穴から、祭神である牛頭天王が出現したそうです。また、当社の東南250mに舟岩と呼ぶ岩があり、牛頭天王が新羅から乗ってきた船だとも。神仏集合の名残が残る、眺めの良い神社でした。
神波多神社かんはたじんじゃ奈良県山辺郡山添村中峯山310-1地元では波多の天王、畑の天王と称しています祭神素盞嗚尊式内社大和と伊賀の境界近くに鎮座一般的に小さな神社は平安時代の延喜式の頃は地域のいろいろな神を祀っていたその後仏教が隆盛神仏習合時代を経て江戸時代には殆ど全国的に有名な天神、春日天王など祭神を替えるその後明治維新の復古調より本来の祭神探しが始まる当社も地元の神を祀っていたが全国的な牛頭天王に変更維新後素盞嗚尊に再度変更したと思います。
名前 |
神波多神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33689 |
評価 |
4.0 |
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環境省巨樹巨木林DBには神波多神社の巨樹として以下の二本が登録されている。幹周り:4.08m、樹高:25m、登録No.47501、スギ幹周り:4.62m、樹高:28m、登録No.47502、スギしかし境内には幹周り4m級の杉を確認することができず、神社の裏口から南東方向に集落に降りる細い道を下る途中で大杉を見つけた。これがその内の一本と思われる。