四国唯一の崇徳天皇陵、静寂の歴史探訪。
崇徳天皇 白峯陵の特徴
四国唯一の天皇陵、崇徳天皇の御陵は白峯寺内にあります。
岩壁の途中にある稚児の滝は幻の滝として知られています。
大河ドラマで注目の崇徳天皇は祟り神としても伝えられています。
白峯寺にある崇徳天皇の御陵。お寺からは少し歩くので,足腰に不安のある方は白峯寺内にある遥拝所に行くとよいかもしれない。怨霊を鎮めるためか,けっこう立派。
御陵に行くには西行の道や白峯寺護摩堂と頓証寺殿の途中を左側の小道が主です。杉や檜等々の大木の間を行く鳥居が有りそこが御陵です。実に幻想的な空気の流れているスポットです。
四国唯一の天皇陵。
静かな場所です。
四国で唯一の天皇陵。美しい白峯山に凛として祀られている。保元の乱から配流後の崇徳天皇は、おどろおどろに怨みにつつまれていたとか、あるいは都から遠ざけられて単に寂しかっただけだとか言われているが、、。沖の波が都を隔てて心細いよという詠は、弱々しい境地に聴こえる。配流後わずか8年のち46歳で亡くなっていることもそれではさもあらんかとも思う。しかしです。讃岐院となってから、こちらでも妻を得、一男一女も得ているので、そこからもし気持ちを切り替えてくれていれば、幸せになる事は可能だったのではないでしょうか。野心があればこそ辛いのでしょうが、美しい四国の周りを見回せば心うたれても良さそうな。身一つで考えてみれば、素晴らしい環境であったと思いますよ。西行法師の天皇に捧げた歌もそれも含めて言いたかったのかも。
「松山の浪にながれて来し船のやがてむなしくなりにけるかな」雨月物語の「白峰」が、一番好きです。
祟り神になったとされる唯一の天皇です。
第75代崇徳天皇の御陵(しらみねのみささぎ)です。 保元の乱(1156年)に敗れた崇徳上皇は京の都から讃岐國(香川県)に配流(罪人として島流しの刑)され、その後ついに都に還ること叶わず、8年後の長寛2年(1164年)8月に「鼓岡の木ノ丸殿」で悲運の生涯を閉じられました。 ご遺体は朝廷がその死を無視したため、国司による葬礼が行われただけで、この地で荼毘に付され収骨されることもなく、そのあとに土を盛った程度の「墓」だけで、陵とは扱われず区画もなかったと推定されています。 朝廷の対応もその後変わることは無かったのですが、治承元年(1177年)になると状況は一変し、京の都では次々と災難が起き上がり、「崇徳上皇の怨霊説」が生まれました。 精神的に追い詰められた後白河院はついに保元の宣命(天皇の命令を伝える文章)を破却し、罪人扱い時の崇徳上皇の「讃岐院」の院号も「崇徳院」に改め、また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられ御陵も現在のような立派なものになったようです。 なお、この御陵は四国に存在する天皇を祀った唯一のものです。
大河ドラマの影響で、個人的に好きな、崇徳天皇・・・・権力があるが故、様々な派閥争い、権力闘争に巻き込まれてしまう・・・昔の人の欲望、生きる事、他人に容赦ない、疑念や思い込み・・・多く産まれ、多くが早くして死ぬ故なのか、生と死を間近で見て沢山経験する故なのか、欲望の為には命さえも軽く扱われてる感じがする、人の無情さをも、歴史が教えてくれます。「負けて勝つ」とは、言えないかもしれませんが、静寂の中で、感覚が冴え、無の境地に・成れそうな感じです。いち早く権力闘争を、脱出し、他者を絶対的に悪く思わない様に過ごされて地元の人々に親しまれ、穏やかに過ごされた説もあるそうです・・
名前 |
崇徳天皇 白峯陵 |
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ジャンル |
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電話番号 |
072-955-1115 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.5 |
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2022.11現在近くには寄れないようだ。波乱と悲運の人生を偲び、静かに合掌した。