珍しい古墳と秋の祭り。
讃留霊王神社の特徴
秋の例祭がとても楽しく、地域の文化を感じられます。
古墳と神社建築が融合した独特の景観は全国的にも珍しいです。
由緒ある讃留霊王神社の歴史を学べる貴重な場所です。
本にどのようにこの神社が紹介されているのか調べてみる❷【参考 法勲寺村史 1957年】讃留霊王神社(1957年の書による)[祭神] 武鼓王社伝桓武天皇御宇、明神が此山に現れ給い、神託によって和気氏により社殿を武鼓王の墓前に造立す。讃陽網目(本の名前※1)に陵もと荒れ果てあやしげなる藁葺(わらぶき)の祠のみのこれり。寛保2年(1742年)御宮建立有之云云と[補足]・棟札が残るが、割愛・御旅所は明治初年までは「東3丁目逆川の東117番地」の一部にあった。下法名の神木という地名があるが、御旅所の神木から来ているのでは、と考えられているが真義は不明であるようだ。※1 讃陽網目・・宝暦7年(1757年)、中川雄心育の書[鎮座地] 下法軍寺西尾[例祭] 10月15日(元旧暦9月15日)[境内末社] 宇気持神_______________❶【参考 口訳全讃史 1981年】讃留霊王(さるれおう)神社(1828年の全讃史書による)武鼓王(たけかいこおう)の霊を祭神とする。思うに「城山の長者」が始めて祀ったのであろう、とある。〇【参考 讃岐酒史 昭和12年】「城山の長者」とは神櫛王の後裔 益甲(やかつ)黒丸・・城山長者と称し、あるいは武鼓王の孫ともいう、と本の序文に記されている。栗隈郷にあって、小麦を醸(かも)し酒を造りたが、味甘列で黒く清んで居たから「黒丸酒」と名付け「充恭天皇」に献じた。天皇、これをほめ大いに喜び給い、姓字「酒部益甲(やかつ)黒丸」を賜うと伝えられている、とある。
讃留霊王(さるれお、さるれおう)神社古墳が珍しいですね。
古墳が御神体という珍しい神社です。陶の「猿王」という地名の由来を知りたくて地図を見ていたときに、この神社を見つけました。数々の由緒を記した石碑や案内板など、どれも楽しく読ませていただきました。──────────────────【讃留霊王の悪魚退治】(石碑より抄訳)景行天皇の時代に、南の海に悪魚が現れた。悪魚が船を襲っては南海諸国の年貢を奪うので、天皇は兵を遣わせたが、悉く敗れてしまう。そこで日本武尊(やまとたけるのみこと)に悪魚討伐を命じたところ、尊は自身の息子である15歳の霊子にその任を命じた。霊子は兵士とともに軍船で悪魚に挑んだが、船ごと丸呑みにされてしまう。しかし霊子は準備していた道具で魚を腹の中から焼き、腹を裂いて脱出した。霊子が魚の屍にまたがって福江の浦に漂着した頃、兵士たちは魚の毒気にあてられて倒れていたが、突如現れた童子の差し出す不思議な水によって蘇生したという。この伝説が「日本武尊が内海の賊を討伐し、功を子に譲った話」として、のちの世に伝えられたのである。見事悪魚を退治した霊子は讃岐国を賜り、この地に養蚕技術を伝え、武殻王(たけかいこおう。建貝児王とも表記あり)と呼ばれた。王が128歳で世を去ると、民は王の墳墓に霊廟を立てて「永く讃岐に留まられた讃留霊王」と称え、奉ったのである。王の子孫はそれからも養蚕・綾織を広め、綾公(あやのきみ)の姓を賜り、当地の綾氏(綾野氏とも表記あり)の祖となった。【魚霊堂と法勲寺】(石碑より抄訳)行基法師は福江の裏に魚霊堂を建立し、悪魚を供養した。また、讃留霊王の居館があった玉井の里に、綾氏の氏寺として法勲寺を創建した。法勲寺は一時衰退するが、弘法大師が魚霊堂を法勲寺へ移し、荘厳な寺院として再建した。【矢塚】讃留霊王は城山(きやま)に居を構えたが、晩年、海の見える館が嫌になり、海の見えない地を求めて山から矢を放った。矢は讃岐平野の真ん中に突き立ったが、そこからはまだかすかに海が見えたため、やや北の地へ新たに館を建てた。矢の突き立った石は「矢塚」と呼ばれ、祀られた。今では讃留霊王神社境内に移されている。──────────────────◯地神塔について境内に見慣れない石塔がありました。五角柱に五柱の神名を刻んだ「地神塔」と呼ばれるもので、地神へ五穀豊穣を祈るため、文化文政時代に岡山・香川・徳島を中心に広まったのだそうです。地神塔には五角のほか六角のもの、罔象女神(水の神)が加わったものなどもあるらしく、とても興味深いです。▶︎『法勲寺村史』によると、これは「地神社」と呼ばそうで、旧法勲寺の礎石を重ねた上に立てられているそうです。◯古事記伝について本居宣長が『古事記伝』に「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言ふ祠あり。それは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて記せるは…」と引用したことがきっかけで、讃留霊王は広く知られるようになりました。この書の中で宣長は「さるれいという言葉の由来はわからないが、讃留霊と書くのは後世の当て字」と判じています。◯「さるれおう」について竹取物語には、讃岐造を「さるきのみやつこ」と伝える異本があります。書き誤りや訛りで讃岐が「さるき」となり得るように、「讃岐の王」も「さぬきおう・さるきおう・さるおう・さんおう・さんのう」と揺らぎながら伝わり、綾氏の伝承には、一族の祖に相応しい格式のある讃留「霊」王と記されたのではないでしょうか。霊の王ってなに…とは思いますが。◯法勲寺・生駒氏との関わりについて法勲寺は長く廃寺となっていましたが、生駒親正によって再興しました。親正の死後は親正の墓所へ移され、親正の戒名から弘憲寺と改称し、生駒氏の菩提寺となっています。生駒氏は藤原北家の後裔と伝えられており、中世の綾氏もまた藤原北家、讃岐藤原氏として勢力を張っていました。生駒氏にとって綾氏は同族であり、綾氏の祖とされる讃留霊王は、すぐれた武勲と由緒ある系譜の象徴として、法勲寺とともに重んじられたのでしょう。◯日吉讃留霊王は一に讃王といひそれが山王と通ずるので、山王さんには日吉がつきものであるので讃王さんがある地であるから日吉と名付けられた(『法勲寺村史』より)◯さかさま川大束川が法勲寺の東で南流する部分を云う。条里の溝あとである(『法勲寺村史』より)
御祭神様武殻王(たけかいこおう)日本武尊様(ヤマトタケル様が父。
秋の例祭があります。
古墳と神社建築は全国的にも珍しいと解説にありました。
| 名前 |
讃留霊王神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
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