心身ともに安らげる、比治山の寺院。
長性院(浄土宗)の特徴
比治山にある数少ない浄土宗のお寺で、心身ともに安らげる場所です。
広島新四国八十八ケ所の55番目の霊場で、特にお地蔵様がお出迎えします。
住職さんとのトークは楽しく、訪問時にはお菓子もいただける温かさがあります。
3年前、御朱印を書いていただいた上に、お菓子もいただきました☺️ありがたかったです。
良雲山千日寺長性院、浄土宗のお寺です。仁王様がとても立派です。御朱印も、直接書いて頂けました。とても住職様が良い方です。
比治山にある浄土宗のお寺です。
住職さんの人格は最高です。
境内に接骨院もあり、住職・副住職ともに柔整師で心身ともに安らげる寺院さんです。定期的に写経会が行われています。
数少ない浄土宗のお寺です。住職が実直な方で、余計なお車代などは、拒否されます。年代の違う私達にも気さくに話をされます。仏様の事を考えながら行動しているのが伝わります。自然と毎月、お寺に参拝しています。
広島新四国八十八ケ所の55番。H30のスタンプウォークで参拝。なかなか立派なお寺。
大きなお地蔵様がお出迎えてくれるお寺。住職さんが気さくな方でお菓子をおすそ分けして頂きました。
広島新四国八十八ヶ所霊場55番目住職さんとトークしましたが、楽しい方でしたお菓子まで頂いて、楽しいひと時もらいました。
| 名前 |
長性院(浄土宗) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
082-263-4419 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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良雲山 長性院(ちょうせいいん)千日寺は、広島駅の南1.4kmほどの広島市南区比治山町に伽藍を構える浄土宗の寺院です。広島新四国八十八ヶ所霊場の第55番札所です。元和3年(1617年)信濃国(現 長野県)の僧侶であった正誉玄斉(しょうよげんさい)和尚が、諸国を巡る旅(巡錫)の途中でこの地に立ち寄りました。和尚は、紫の雲がたなびき不思議な光が差し込む中に、荘厳な鉦(かね)の音が響くのを聞き、導かれるようにお地蔵様を見つけたと伝えられています。この地を仏教に縁のある霊地だと感じた和尚は、阿弥陀如来を安置し「栄山庵(えいざんあん)」という庵を結びました。その後、和尚が千日間にわたってひたすら念仏を唱え続ける「千日念仏」の修行を行ったことから、この一帯は「千日谷」とも呼ばれるようになりました。創建初期の栄山庵は、まだ周囲に草木が深く茂る幽静な場所でした。ある夜、ひとりの武士が通りかかり、腕試しのためにそこにいた女人を「試し斬り」にしました。しかし翌朝、武士が確認すると、そこに横たわっていたのは女人ではなく、斬られた形跡のあるお地蔵様(地蔵尊)だったといいます。この奇跡に深く恐れ入り、自らの罪を悔いた武士は、その場で髪を剃って玄斉和尚の弟子となりました。この元武士こそが、後に寺を支えることとなる第2世・善誉上人弘願和尚であると語り継がれています。その後、紀伊国(現 和歌山県)の僧侶である白誉(はくよ)師の時代に、寺の規模は大きく拡大します。12歳の頃から東照大権現(徳川家康)に仕えていた、山城国伏見の武家・寺西将監利之の妻(法名:長性院)と娘(法名:良雲院)から、銀三十貫目という莫大な寄進を受けました。この寄進によって立派な堂塔が建立され、これに感謝して山号と院号を合わせ「良雲山 栄山寺 長性院」と号するようになりました。白誉師はこの功績から「中興開山(ちゅうこうかいさん)」、寺西の妻は「開基(かいき)」と位置づけられています。さらに正徳4年(1714年)、初代玄斉和尚の千日念仏の遺徳を称え、寺号を現在の「千日寺」へと改めました。昭和20年(1945年)8月6日、広島に原子爆弾が投下され、比治山の山陰にあった長性院は、爆風による被害を受けつつも全壊を免れ、多くの被災者の心の拠り所となりました。現在の境内にある鐘楼門には、迫力ある阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の二体の仁王像が安置されています。この仁王像は、自らも被爆者である彫刻家が、原爆の熱線と爆風に耐え抜いた被爆樹木(クスノキ)を用いて彫り上げたものです。歴史的な戦災と平和への祈りを今に伝える、非常に貴重なシンボルとなっています。浄土宗(じょうどしゅう)は、平安時代末期の承安5年(1175年)に、天台宗の僧侶の法然(ほうねん)によって開かれた日本の仏教宗派です。 当時、戦乱や災害、疫病の頻発によって世の中には「末法思想」が蔓延し、人々は強い不安を抱えていました。従来の仏教は厳しい修行や多額の寄進が必要で、主に貴族や知識層だけのものでした。これに対し、比叡山で修行を積んだ法然は、中国の僧・善導の教えに救いを見出しました。そして、「南無阿弥陀仏」の念仏をひたすら唱えれば、身分や男女の別なく誰でも極楽浄土に往生できるという「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を提唱しました。 この革新的で実践しやすい教えは、皇族から一般民衆にまで爆発的に広がりました。しかし、急速な拡大は旧仏教勢力の反発を招き、法然が讃岐国へ流罪となるなどの弾圧も受けました。 法然の死後、弟子たちによって教えは受け継がれ、徳川家康が江戸幕府を開くと、東京の増上寺が徳川家の菩提寺となったことで教団はさらに大きく発展しました。現在は京都の知恩院を総本山とし、多くの人々に信仰され続けています。