宝篋印塔で心静まる供養。
宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種です。多くは、石で造られています。「壱岐国続風土記」や「壱岐名勝図誌」では「宗女御東墓(そうじょおんひがしのはか)」と記されています。むかし、宗対馬守の女が唐津城主波多宗無の後室となり、嫁ぎました。あるとき、父君を訪ねるために唐津から対馬に渡ろうとしましたが、船中でにわかに病気になり、渡良浦の大島の港に着きました。その後病気は次第に重くなり、ついに亡くなります。この事を唐津に連絡すると、壱岐国に葬るべしとの命があり、「対馬と唐津の見える所に葬るべし」との遺言もあり、郷ノ浦の本居村に船を着け、渡良浦道の北側の高所に葬りました。その宗女の名を御東といいます。この伝承は、郷ノ浦町東触所在の「華光寺高山の宝篋印塔」にまつわるものと全く同じです。違うのは被葬者の名前で、ここにある宝篋印塔は「御東」の供養塔であり、華光寺の宝篋印塔は「華渓」の供養塔になっています。2人は同一人物と考えられていてます。四方に金剛界四仏の種子(梵字)を彫ってあります。無地の隅飾りが二弧ついています。この燈籠には、天保九(1838)年戊戌秋七月、対州小河三四郎平功永謹建之という銘が刻んでありますが、献納者の小河氏がどういう人物であるかは不明です。
名前 |
庄触梅坂の宝篋印塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種です。多くは、石で造られています。「壱岐国続風土記」や「壱岐名勝図誌」では「宗女御東墓(そうじょおんひがしのはか)」と記されています。むかし、宗対馬守の女が唐津城主波多宗無の後室となり、嫁ぎました。あるとき、父君を訪ねるために唐津から対馬に渡ろうとしましたが、船中でにわかに病気になり、渡良浦の大島の港に着きました。その後病気は次第に重くなり、ついに亡くなります。この事を唐津に連絡すると、壱岐国に葬るべしとの命があり、「対馬と唐津の見える所に葬るべし」との遺言もあり、郷ノ浦の本居村に船を着け、渡良浦道の北側の高所に葬りました。その宗女の名を御東といいます。この伝承は、郷ノ浦町東触所在の「華光寺高山の宝篋印塔」にまつわるものと全く同じです。違うのは被葬者の名前で、ここにある宝篋印塔は「御東」の供養塔であり、華光寺の宝篋印塔は「華渓」の供養塔になっています。2人は同一人物と考えられていてます。四方に金剛界四仏の種子(梵字)を彫ってあります。無地の隅飾りが二弧ついています。この燈籠には、天保九(1838)年戊戌秋七月、対州小河三四郎平功永謹建之という銘が刻んでありますが、献納者の小河氏がどういう人物であるかは不明です。